昨年、ユナイテッド航空とコンチネンタル航空が経営統合し、「大」ユナイテッド航空になった。それぞれに10万マイル強のマイレージを持っているぼくとしては、マイレージ統合の行方を結構気にしていたのだが、本日、具体的なマイレージ統合手続きのメールが来た。
(ひょっとするともっと以前に来ていたのだが、『早くしろ』という催促だったのかもしれない(笑))

手続きは全てWebで可能で、UA→CO、CO→UAどちらでも可能だとのこと。

実際やってみると、「住所が違う」といわれてしまったが、居住地のCHIBAが、CITYなのかPREFECTUREなのか、それぞれのアカウントで解釈が異なっていたことによるようだ。

まあそれは速やかに解決して、実際に移行手続きを始めてみると、これが極めてスムーズで気持ち良い。ぼくは、なんとなく大が小を兼ねるような気がしてCO→UA向きに移行したのだが、部分移行も可能だったようで、移行するマイル数を入力すると(たぶん)ajaxで、みるみる残高が変わっていくのがわかる。

UA、COそれぞれに数百万人の会員を擁する巨大なマイレージシステムで、ぼくなんかは平会員だが、エリート会員制度もそれぞれ結構複雑だったと思う。それがこんなにオープンに、スムーズに手続きできたというのは、よほど優秀なシステム会社が担当したのだろうな・・・と、本当に感心してしまった。

ちなみに、ぼくは本当の意味でのコンチネンタル航空には一度も乗ったことが無い。太平洋方面に出かけるにあたって「コンチネンタル航空」はわりと良く利用するのだが、それは、元々「コンチネンタル・ミクロネシア航空」というか、さらにさかのぼれば「エアー・ミクロネシア」だったはずなのだ。

なので、ぼくの頭の中では、コンチネンタル航空のハブ空港はというと、行ったこともないヒューストンではなく、あくまでもグアム空港だったりする(笑)。

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後日談(2011.7.20)
せっかくマイレージプラスに統合したのに、なぜかワンパスのほうが予約が取りやすいということがわかり、何とかマイル配分を元に戻せないかと思ったら、いとも簡単に戻せてしまった。
何度でも好きなだけ配分できるとのこと。
ホントにすばらしいシステムだ。。

「宝島」などで有名なR・L・スティーブンソン(以下RLS)がサモアで暮らしていたときの日記「ヴァイリマ・レターズ」に中島敦が要所要所で解説を加えて仕上げた作品。
かつてRLSが暮らしていたサモアの家は、現在、スティーブンソン博物館として公開されているほどの立派なもの。・・・という程度の知識はあり、そのため、我ながら偏見だとは思うが、RLSについては「途上国で君臨していた白人のブルジョワ」というイメージもあったのだが、この作品でかなりイメージが変わった。

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RLSはもともと病弱で、南海の優しい気候が転地療養に良いだろうということでサモアに移り住んだのだが、19世紀末の当時はまだ植民地主義が残っていた時代で英米独の3カ国がサモアを牛耳り、搾取していた。

そんな中、サモアにもサモア人にも好感を持つRLSは積極的に現地に溶け込もうとするものの、そういう姿勢は白人の支配層から反感を買う。RLSは当時既に名の通った文学者であり、いわゆる名士でもあって現地の人たちからも「ツシタラ(語り部)の酋長」としての尊敬を集めたという。

従って、本人が意図したかどうかは別として「土人の味方で反政府派」というようなレッテルを貼られてしまうようなのだが、本人は、少なくとも作品中では、そのことをそんなに深刻視していないようにも見える。(もちろん、色々と東奔西走している様子ではあるものの)

さらに少し驚くのは、病弱で、何かというとすぐに喀血してしまうような自身の健康状態についても割と達観してしまっているようだ。むしろ、自分の作品の出来不出来や、これまでの半生を振り返っての内省的な苦悩、さらには多くの家族や使用人を養うための経済的な苦労のほうが本人にとっては深刻な問題だったように思える。

日記の随所に、サモアの美しい景観についての記述が出てくる。
「・・・色無き世界が忽ちにして、溢れるばかりの色彩に輝き出した。此処からは見えない、東の巌鼻の向うから陽が出たのだ。何という魔術だろう!今までの灰色の世界は、今や濡れ光るサフラン色、硫黄色、薔薇色、丁子色、朱色、土耳古玉色、オレンジ色、群青、菫色・・・金の花粉を漂わせた朝の空、森・・」
等など。

RLSの感性に大変に惹きつけられる作品。他の作品も読んでみたくなる。

24やプリズンブレイクなどと同じような海外TVドラマシリーズ。1968年から12年続いた人気番組だったが、そのリメイク版が2010年から始まって、日本でもAXNで観られるのでしょっちゅう観ている。

舞台はタイトルどおり全編、ハワイ。全作観たわけでは無いが、ストーリー自体は、まあ可も無し不可も無しといったところか。(なんだか上から目線だ・・)それでも夢中になってしまうのは、とにかく、撮影シーンがいちいち風光明媚なのだ。あんなところに行ってみたいなとか、住めたらいいなとか、ストーリーとはあまり関係ないところで目が釘付けになってしまう。ハワイ州観光局やハワイアン航空がスポンサーになっているのもうなずける。

ただ、風光明媚とはいえもちろん観光客目線での話ではなく、殺人事件やら何やら物騒な話がテーマの警察ドラマなので、観光客にはなじみの薄い場所がたくさん出てくるのも面白い。刑務所など警察関係の施設とか、事件が起きる場所なども、ワイパフとかカネオヘとか、the busのルートマップでしか見たことが無いような場所が多い。

ハワイに何度も行っていても、「クアロアビーチ」とか聞いてすぐには正確な場所が浮かばない人が多いためか、AXNが面白いサイトを提供している。その名も『HAWAII MANIA』↓

http://axn.co.jp/program/hawaii5-0/hawaiimania/

1話放送される都度、各話に関するクイズが掲載される。例えば第11話だと、「冒頭のフィッシングの舞台は?」というクイズで、3択の中から正解(クアロア・ビーチパーク)を選ぶと、地図がスクロールして該当の場所にピンが刺さり、解説が表示されるというもの。(どうやらGoogle Mapを細工しているらしい。Google Mapをこんな使い方ができるのか、という点でも一見の価値あり)

まあとにかく、観光地としてのハワイを再認識できるという意味でも、ハワイはなんだかんだいってもアメリカ合衆国の中の都会の1つだということを再認識できるという意味でも興味深いドラマ。今年(2011年)の9月からはシーズン2が始まるらしい。是非日本でも引き続き放映されることを希望(^^)。

ハワイに行った際には必ずといってよいほど立ち寄るのがこの博物館。設立されたのは1889年だが、当時は別の場所にあったようで、現在の地にオープンしたのは1898年。それでも実に100年以上の歴史を持っている。

正式な名称はBernice Pauahi Bishop Museumという。設立したのはCharles Reed Bishopという白人だが、彼の妻がハワイの王族 Bernice Pauahi王女で、亡くなった妻を偲んで設立したというのが命名の由来。

ハワイの風土は西欧からの影響に対してあまり相性が良くなかったらしく、ハワイ王朝の王族たちは一部の例外を除いて皆驚くほど短命だった。(政権が短命という意味ではなく、文字通りの短命)。王家につながる人々が続々と亡くなっていく中、相続される財産は、不謹慎な書き方を許してもらうならばまるでLOTOのキャリーオーバーのように膨れ上がり、バーニス王女が最終的に相続した財産はハワイ全土の3分の1にも相当する量になっていたという。そんなバーニス自身も夫に先立ち、1884年に亡くなってしまう。

1884年と言えばハワイ王朝も末期。白人資産家たちがあの手この手で王家の力をそぎ取り、ハワイを実質的な植民地化しようと蠢動していた時期。夫リチャードは妻の残した超莫大な財産を背景に、王家へのつながりをもとにハワイアンの支持も獲得、そしてそもそも白人であるということから、財閥とも組んで、一躍ハワイ最大の実力者に上り詰め・・・たりはしなかったのだ。

日々行われる政治闘争には背を向け、莫大な財産はハワイ人子弟に高等教育を施すためのカメハメハ・スクールやプナホウ・スクール(どちらも現在でも名門校)の設立や、First Hawaiian Bankの設立、そして王家の財宝を大切に後世に残すとともに教育にも役立てるべく、妻の遺志をも汲んで博物館を設立するなど、最後のロイヤルファミリーの一員としての義務を全うしていったのだった。ハワイ王朝滅亡後も財閥と組むのをよしとせずにカリフォルニアに帰ってしまい、リチャード自身の没後は、遺言で遺骨はハワイに戻され、愛妻バーニスの隣に葬られたのだという。

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そんな上質の設立経緯を持つ博物館が素晴らしくないわけはないのだが、外観や内装もまた素晴らしい。100年以上の歴史を持つハワイアンホールは2009年に内部が改装されたものの、ハワイの火山岩による外装はそのままで、ハワイの青空に実によくマッチする。内装は全面豪華なコアウッドというのもそのまま。建築当時はさほど希少な樹木とはいえなかったのかもしれないが、現在同じものを作るとすると、これだけで気が遠くなるような費用になるはずだ。

肝心の展示品については、自然史博物館的な側面も持っているため、もっぱら地元の子供たちのための宇宙開発の歴史とか恐竜博といった類の、ニッポンジンから見ると「上野の博物館の勝ち」みたいな企画展も多いが、常設展示と、時折開催されるハワイの文化歴史に関する企画展は、それぞれさすがビショップ博物館とでもいうべきもの。ハワイのみならず環太平洋での作品や出土品が集結している。

あと、展示品とは違うのだが、個人的にとても気に入っているというか、気になっているのが、前庭や中庭に漂うなんともいえない空気。(これは言葉で書くのが難しい)。優しいような、張り詰めたような、とにかく1日中でもそこにいたいと思える不思議な空気が漂っている。いったいあれは何なのか・・?

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そして普段ぼくが何よりお世話になっているのが、「Bishop Museum Press」謹製の膨大な数の出版物。ハワイの歴史や文化に関する参考書の多くは、ここの出版物か、あるいはそれらを出典として書かれていたりするのだ。古くは19世紀末から数十年くらいかけて出された「Memoirs of Berinice Pauahi Bishop Museum of Polynesian Ethnology and Natural History」シリーズ。全12巻で各巻がまたいくつかの部数にわかれる膨大なもの。(多くのreprintも出されている。神話に関するFornander Collectionはvol.4~vol.6)また、現在でも延々と続いているのが「Bishop Museum Bulletins」のシリーズ。これまた300冊くらい出されている・・

・・と、このあたりは書き始めるときりがないのだが、あと、さすがアメリカの博物館ともいうべきは、Webで閲覧できる資料の膨大さ。「Ethnology Database」が公開されていてハワイ古来の楽器の写真と使い方、さらに音色まで!とか、ああ、やはり書ききれない。

この本も何度となく読み返している本の1つ。「かくもちっぽけなヤップ」「島への回帰」、そして書名にもなっている「サタワル島へ、星の歌」の3編で構成されているが、ここで書くのは表題の話について。

サイパン島での、リノ・オロパイという、伝統航法を持つ一族の末裔へのインタビューを軸にして、スター・ナヴィゲイション(星や風、波のうねりを読んで太平洋を自在に航海する航海術)についての無数のエピソードを紹介している。

ぼく自身、ハワイの神話と伝説というサイトを運営していたりする事情もあって、太平洋各地の神話には少し詳しいつもりなのだが、神話というのは魅力的ではあるものの、どうしても、現代人のぼくたちからすると「絵空事」という印象をぬぐえない。

しかし、この本の主役ともいえるサタワル島やプルワット環礁の人々の暮らしや考え方は、まさに神話と現実をつなぐ鍵ともいえるのだ。

太平洋の雑な地図だと、サタワル島もプルワット環礁も見つけられないかもしれない。それぞれ、中央カロリン諸島に位置しており、行政区分でいうと、サタワル島はヤップの東端、プルワットはチュークの西端にあって、どうみても外界とは隔絶している。ところが、プルワットの男たちは20世紀の今でも、「ちょっとタバコを買いに(彼らは喫煙者らしい!)」千キロ離れたヤップ本島やグアム、サイパンまでカヌーで漕ぎ出していくらしいのだ。

1976年、ハワイアンルネッサンスの象徴的出来事ともいえる、ホクレア号での「ハワイ-タヒチ4千キロのスターナヴィゲイション」航路の復活にあたって、太平洋中から伝統航法のできる航海士が探し求められ、やっと見つかったのがサタワル島のマウ・ピアイルグだった。ピアイルグは見事に、それまで一度も行ったことのないタヒチに船を導いたのだが、彼の伝統航法の手法は乗組員たちからは迷信扱いされ、怒ったピアイルグはタヒチに着くなり「もう帰る」と、さっさと飛行機で帰ってしまったという。

サタワルでもプルワットでも、伝統航法は口承で伝えられる一族の秘儀ともいえるもののようで、航海士になれるのは、島の中でも才能を見出された一握りの若者だけなのだ。その若者にはなんと数年にわたって日夜、学習(夥しい数の航路を歌で覚える)と訓練が施されたのちに、やっと一人前の航海士になれるという。

その結果、どういうことができたのか。本書からエピソードを抜粋すると、

『彼らは、来たことも無いのにグアム島周辺のあらゆる水道を知っているし、もう存在しない島への航路さえ知ってるんだ。しかもその島がどうしてなくなってしまったのかを説明する神話まであるんだ』

『昔はタブーが良く守られていたからカヌーも宙を飛んだ。トビウオのようにね。落下して水面に触れるやいなやまた飛び上がる。今ではもうカヌーがそんなふうに飛ぶことはなくなった。やってはいけないことをたくさんやっているからね。』

『ある男はマグロを呼ぶ薬を作る。またある男は流木を引き寄せる薬を知っている。潮流の専門家や雷の専門家もいるが、もうそういった技術を使うこともない』

等々。

本書の最後で、ブラウアーがオロパイに「サタワルへの星の歌を歌ってくれないか」と頼むのだが、「歌えるけど、そうしないほうがいい。」と答えるオロパイの姿勢が、まるで滅び行く貴族を見ているようで何とも切ない。

ぼくが大学生だった頃に開館した、東洋陶磁専門の美術館(大阪中之島)。

学生の頃はわりと足繁く通って随分と目の肥やしにさせていただいていたのだが、就職と同時にだんだん疎遠になってここ10年くらいは訪問していなかった。久しぶりに訪問すると、李秉昌(イ・ビョンチャン)コレクションが独立して3階に部屋を持ったりしていたが、基本は開館当初と変わらぬ配置で懐かしさも蘇ってきた。

世の中に美しいものはたくさんあるし、何を美しいと思うかはもちろん人によって違うとは思うが、少なくともぼくにとっては1つの美の基準というか、「美しさというのは本来こういうことなのか」と、つい大げさな感想を抱いてしまうような作品が多いのだ。

白磁の作品は「凜」という語感がまさにぴったりくる印象で見るものを緊張させてくれるし、青磁の名品の数々は、その柔らかさから、見ていると吸い込まれてしまうような気になってしまう。粉引の作品群からは「陶器のある楽しい生活」という想像が膨らむ。

ぼくは普段プラスチックのマウスやキーボードで仕事しているわけだが、『仕事の道具』としては便利には違いないものの、いかにも安っぽいし緊張感が無い。書き間違えればいくらでも書き直せる。墨をすり、白磁の筆筒から筆を取り出し、原則として書き直しのできない文章を書いていた、いにしえの文人達の頃とは、文明は発達しても文化のレベルは相当に下がっているのかもしれない。

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陶磁器の鑑賞には照明の具合が非常に重要な要素であるらしく、国宝の飛青磁などには工夫を凝らした柔らかい光があたっている。解説をそのまま転記すると、『古来、青磁を見るには、秋の晴れた日の午前10時ごろ、北向きの部屋で障子1枚へだてたほどの日の光で』という言い伝え?を忠実に再現したということらしい。

最近、仕事の関係で、(光の)拡散板を扱う会社とお付き合いがあるのだが、さまざまなタイプの拡散板を駆使することで、とがった眩しい光でも、自在に柔らかい光に変換できるらしい。それは照射角度や拡散角度で表現される極めて物理的な世界の話なのだが、陶磁器基準で「鉄砂をもっとも際立たせる拡散照明」「白磁の緊張感を最大限に引き出す拡散照明」というような、文科系的なアプローチがあってもいいのではないかとも思うのだ。

東京大阪の比較ネタというのは、秘密のケンミンショーを見ても分かるように無限にあるのだが、極めて個人的な思い出をいくつか。

西梅田の地下にkioskふうの売店がある。(普通にある例のやつ)。その店で唯一他と変わっていたのが、タバコも売っているため、「こばた」と、赤地に白い小さな看板が出ていたこと。ある日、同僚数人とそこを通りかかったとき、その中の1人(女性)が、ちょっと驚いたふうに「小旗なんか売ってて誰が買うんやろね?サッカーの応援かしら?」とつぶやいた。

もちろん一同爆笑で、「小旗屋て、どんだけマイナーな店やねん」とか「俺イタリア1つ~とかフランス2つ~とか言うんかい!」とか散々からかわれたということがあった。ただ、大した話でもないし、その後そんなことはすぐ忘れた。

ところが数年後、東京に転勤して驚愕したのは、馬喰町のあたりをたまたま歩いていると、ホントウに「小旗屋」があったのだ!イタリアやフランスの小旗がショーケースに並んでる。

やはり東京は大都会だ・・・と思ってしまった一瞬。

もう1つ。御堂筋の地下、近鉄なんば駅への階段の近くに小さな売場があって、朝は新聞やらタバコやらを買う客で相当混雑している。

この売場をたった1人でさばいているオバちゃんがとにかくすごいのだ。人間技とは思えないスピードで客をさばいていく。「すごい」と思ったのはぼくだけではないようで、『1分で60人以上の客をさばくおばちゃん』として朝日新聞の記事にもなっていた。

このくらいのスピードになると、買うほうも少し緊張する。オバちゃんと対面になった瞬間には、商品と現金を明確に示せていないといけない。オバちゃんは0.1秒ほどそれらを画像認識したあと、おつりの要不要とおつり金額を瞬時に判断・計算し、おつりを渡しながらすでに次の画像処理を併行して行っている(に違いない)のだ。オバちゃんと対面になりながら、「やっぱりこっちの新聞かな」なんて迷おうものなら周囲から怒号が飛んできそうな雰囲気がある(笑)。

ちなみに、この売場に隣接している近鉄なんば駅へのエスカレーターは、朝は「高速運転」をする。『真ん中のエスカレーターは高速運転をしています』というアナウンスを聞きつつ、近鉄から御堂筋への乗り換え客は、脱兎のごとく高速エスカレーターをさらに駆け上がり、この売り場で新聞を買って電車を乗り換えるのだ。

さらにちなみに、どこかの調査で、世界の大都市で人々の歩行速度を測定したというヒマな記事を読んだことがある。それによれば、大阪市民の平均歩行速度はニューヨーカーをも凌ぎ、堂々の世界第一位だった。

時々、東京の日本橋とかで込み合うkioskを見ながら、「まだまだやな」と思ってしまう瞬間。

なぜ「新」なのかというと、東恩納寛惇の『南島風土記』を踏まえたネーミングであるかららしい。ただし、この本で登場してくる地域は八重山、すなわち石垣島以西の島々に限定されている。

著者の新川明氏は沖縄タイムズ社の新聞記者で、労働組合運動に関わったことから、いわば左遷として八重山に「とばされた」そうだ。(あとがきより)

時代は1960年代、もちろん沖縄「県」ではなく、米軍占領下の琉球政府の時代だ。これもあとがきをそのまま書くと、『当時の八重山についての沖縄本島人のイメージはとてつもない僻遠の島というところで、八重山行きを知らされた那覇生まれの家内は、まるでアフリカの奥地にでもやられるかのように嘆き悲しんだものだ。』とある。

その八重山での「仕事」として、島々を取材して回って新聞連載した記事をまとめたのがこの本である。1972年の沖縄復帰後、観光・リゾート地として認知される以前の八重山についての最後の貴重な記録といった側面を持っている。

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沖縄対八重山というのは、現代ではあまり大きな区別が無いようなイメージがある。ハワイでの、オアフ島対ネイバーアイランドの関係に似ているかもしれない。しかし、一昔前までは、八重山というところは、確実に沖縄の「1つ下」の地域だったらしい。

1609年(日本の慶長14年) の薩摩入り以後、薩摩の厳しい徴求に苦しんだ琉球王府は、両先島と呼ばれた宮古島と八重山に対して一層支配を強め、確実な徴税法として人頭税を課した。

これは読んで字のごとく、所得や所有する農耕地の広さに寄らず、単純に「頭数」で課税する制度で、貧しい人々にとっては、「トゥングダ(人升田)」「クブラワリ」といった、凄惨な人減らしによってしか重税に対応できなかったという酷いものだったようだ。しかもその制度が、明治政府になった後も数十年、1909年まで続いていたというのも驚きである。

江戸幕府から見れば外様の薩摩藩。その薩摩藩に収奪された琉球王国。そして、その琉球から過酷に収奪された宮古・八重山という階層構造があったのだ。

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新川氏の取材成果物の中には、多くの詩や歌、伝承が登場してくる。そもそも八重山自体が「詩の国、歌の島」と呼ばれることもあるらしい。今、竹富島に観光に行って名物の水牛車に乗ると、そこで安里屋ユンタなどを歌ってくれる。「ツィンダラ、カヌシャマヨ~」など、いかにも南国に来たなぁ~という気にさせてくれるものだが、この安里屋ユンタは、最近になって観光用?に作詞さらたものらしく、オリジナルの安里屋ユンタをはじめ、八重山に伝わる多くの歌は、権力者に対して無力だった人たちのギリギリの叫びのようなものが大半だったらしい。

そういった、人頭税を軸とした八重山の悲しい歴史や、遂に立ち上がったオヤケアカハチの伝説、マラリヤの巣窟だった西表島の話など、観光案内にはあまり語られない話に満ちているのだ。

ちなみに、一部の人々(^^)の間では非常に有名な下地島も登場してくる。八重山の古代的祭祀であるアカマタ・クロマタという、ニイルピトゥという神が、ニライ・カナイの国から毎年訪れて豊年を授けるという伝承にもとづく行事が下地島にもあったらしい。
しかし取材の時点では住民は四散して無人島になっており、さらに注釈として、『下地島は、その後、那覇の青年実業家が全島を買収して牧場を経営している』とあるのだが、今では「空港の島」でしかないことは言うまでもない。

くにたち、ではなく、National Museumのこと。

周囲の人たちには広言しているよう、ぼくは博物館が好きだ。この雑文集でも、これまで訪れたいろんな博物館について折りに触れて書いてみたいと思うのだが、この項は「行ったことが無い」博物館について。

国立博物館は以前は全国に3館あった。東京、京都、奈良にそれぞれ1つずつ。(東京大阪名古屋で無いところが渋い。)そしてこれに千里のみんぱく、上野の科博、佐倉の歴博を入れて合計6つ。

学生時代は京都に住んでいた。就職して北大阪にある会社に勤務し、結婚して奈良に住居を構えた。その後転勤で関東に移り、独立後も都内で働きながら今は佐倉に住んでいる。・・・おわかりだろうか?全く意図したわけではないのだが、ぼくはこれまでの人生、自分で生活地域を決められるようになってからは、国立博物館のある地域だけを転々としていたのだ!

それぞれの博物館にはいろんな思い出があって、奈良博は、以前は毎年の正倉院展には欠かさず通っていたし、京博は学生時代にバイトしていたこともある。科博は近いのでリピーターパスを活用しているし、みんぱく(国立民族学博物館)は今でも大阪に出張の都度、時間があれば必ず立ち寄るくらい。などなど。

しかしそんな中、2005年(だったと思う)に、九州は太宰府市に、「九州国立博物館」が4館めの博物館として誕生したのだ。これは嬉しい。しかし悔しい(遠いので)。それまで出張で博多に行くことも何度かあったのだが、博物館の誕生以降、なぜか機会が全く無くて、2011年の今でも訪れたことが無い。

しかし、いつまでも機会を待っていても始まらないので、今年は九博を訪れるためだけに福岡まで行ってみようか。

ちょっと毛色の変わった博物館のご紹介。

何気なく房総半島の地図を眺めていると、唐突に飛び込んできたのが「麻雀博物館」という文字。しかも、麻雀という何となく猥雑な夜の感じがするような場所ではなく、陽光溢れる保養所でもありそうな海岸沿いにある。

一体なんだこれは・・・?と思い、早速ググってみると妙に立派なWebサイトが見つかった。

地元のかたには失礼とは思うが、都内基準で考えるとずいぶん辺鄙な場所にあるので、行き方というか交通案内もややこしいのでは?と思ったのだが、なぜか、『飯田橋』起点での詳細な行き方が記載してある。なにゆえ飯田橋?とも思うが、下記のURL自体がその答になっているようだ。

http://museum.takeshobo.co.jp/index.html

そう、雑誌「近代麻雀」とかでおなじみの竹書房に関連した施設のようなのだ。(竹書房の本社が飯田橋)

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とにかく気になって仕方がないので行ってみた。

JRだと外房線の上総一ノ宮からタクシー8分、あるいは東浪見(とらみ)から徒歩20分とある。サイト上の案内が「徒歩20分」ではなく、「徒歩20分。。」となっているのが妙に可笑しい。

とにかく展示品の豪華さに驚かされる。日本のみならず、中国本家や欧米での麻雀の歴史が概観できるような展示なのだが、博物館にありがちな「学芸員による解説文」とかは少なくて、とにかく歴史を物語る「本物」がズラリと並んでいるのだ。ラストエンペラー溥儀愛用の象嵌入り牌とか、戦後、巣鴨プリズンに収容された高官達が使っていた牌とか、一体どうやって入手したのか・・・

こんな豪華な展示がありながら、平日ということもあって訪問者はぼく1人。おそらくぼくのような訪問者が誰しも抱くであろう疑問、『なんでまたこんなところに・・・』と受付の男性に訊いてみたところ、実はここはもともと竹書房の保養所(やっぱり!)だったようで、それを有効活用したんだとのこと。建物の半分は今でも保養所になっているらしい。

土産品も珍しい麻雀グッズで溢れている。麻雀仲間やついでに雀荘のスタッフにまでお土産を衝動買いしたのだが、大変に喜ばれたことは言うまでもない。

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