神去なあなあ日常

三浦しをん、徳間文庫/徳間書店

三浦しをんの作品は、「舟を編む」とか「まほろ駅前」シリーズとかいくつかは読んだり観たりしていた。それぞれストーリーも面白いし、描写もうまいし、映像のほうでは『変な男』を演じると松田龍平の横に出るものはいないのではないか、など妙な感想も持ちつつ、しかし『2回以上観たり読んだりできる作品リスト』には入れていなかった。

それは作品の完成度の優劣ということではなく(そもそも優劣を見極められるほどぼくの目は肥えてはいない)、「徒歩圏内の世界で起きる、奥行きの深い出来事を巧みに描く」という、ある種の「狭さ感」が、ぼくにとって少しだけ抵抗があったのだと思う。

そして「神去なあなあ」。存在は以前から知っていたが、これも好き嫌いでいえば「たぶん、やや好き」くらいの本なんだろうと、なかなか手に取らずにいた。が、今回映画化されるにあたって、それまでの文庫に映画用のカバーが重ねられ、染谷将太が巨大な杉の木の上で怯んでいる写真が貼られたところで、つい手に取って買ってしまったのだ。(何故かぼくは巨木に心魅かれるところがある)

で、読んでみて、これまで手に取らなかったことを大後悔した。「ものすごく好き」レベルの本だったのだ。慌てて続編の「神去なあなあ夜話」も買いに走ったのは言うまでもない。

とにかく世界観が広いのだ。もちろん、登場するのは三重県山奥の神去村という大変に狭い世界で、読みようによってはこれもまた窮屈な世界での出来事なのだが、他の作品と大きく異なるように思えるのは、神去村というのは「どんづまり」の狭い世界ではなく、なんと、神や獣や鳥たちが暮らす「向こう側の世界」と接している村だったのだ。・・と書くと堀川アサコの幻想シリーズのようなファンタジーに思えるかもしれないが、そこまで露骨に接しているわけではなく、ごく自然なかたちで人々と神が共存していた昔の世界がほどよく残っているという、あくまでも実在していておかしくない村の話。

村の人たちが敬っている「オオヤマヅミ」さんという神、これはまちがいなく大山祗のことだと思うが、古事記にも登場するオオヤマヅミの2人の娘(美しいコノハナサクヤ姫と、そうではない姉のイワナガ姫)まで姿を現して主人公の命を2度も救ってくれる。飼い犬のノコは完全に人語を解しているようだし、三郎じいさんの観天望気はもはや霊能力者と言ってよいレベル。

主人公もしばしば「日本昔話かよ!」という科白を口にするが、まさにそのとおり。おそらくそんなに昔ではなく、百年とか二百年前の日本には至る所に神去村があったのだろうな、と思う。また、さらに遡れば、出雲大社の本殿建造に使われたような樹齢数千年というような巨木もたくさんあったのだろう。

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と書いたものの、おそらく一般的には、この本の価値はそんなところにあるのではなく、『林業』という、100年単位でものを考える圧倒的な世界を、どこにでもいそうな青年の経験を通じてとてもわかりやすく魅力的に紹介しているところとか、登場する人たちのキャラがどれもビシビシと立っていて感情移入しやすく、読みながら姿が目に浮かぶ、などの人物描写力にあるのだとは思う。女の人たちがなぜかみんな美人というのもうまい設定。

しかしぼくとしては、やはり「神と共存できていた時代の描写」に心魅かれてしまう。ある意味、池澤夏樹の「南の島のティオ」にも匹敵するくらいだ。(わかりにくいとは思うが、ぼくとしては最上級の褒め言葉)

※神と共存しているのにどうして「神去」村なのか、というのは、夜話のほうで明らかになる。これまた素敵な話だ。それを語る繁ばあちゃんによれば「ちょっとあだるとな話」だが(笑)