残虐性について考えた(「インディオの破壊についての簡潔な報告」より)

人類の歴史は戦争の歴史だったという話もあるし、つい200年前くらいまでは奴隷制度が公然と認められていた国もあったし、いまだに身分制度で縛られて奴隷のような扱いを受けている人々がいる国もある。

人間でなく動物が相手でも、狩猟が紳士のたしなみという人もいれば、闘牛を観て熱狂する人もいる。直接的には死を伴わないまでも、狭い檻の中に動物を閉じ込めて見世物にすることは公然と推奨されている。

突き詰めて行けば、人間という生物が、他の生物を喰って生きて行かざるを得ない生物なのだから、食物連鎖という観点からも弱肉強食にもとづく残虐行為というのはやむを得ないともいえるのかもしれない。

否が応でもぼくたちはそういう「業(ごう)」を背負って生まれて来たのだから、毛皮のコートを着て捕鯨反対と言ってみたり、微生物や植物や昆虫を殺すことには何のためらいもない人たちが「動物愛護」を自慢することが滑稽に思えたりもする。

でも、ぼく自身は鯨肉も食べれば、害虫は駆除する人間だけども、敢えて「捕鯨反対や動物愛護と言っている人たち」の味方はしたいと思う。

当たり前の話だが、人間の「業」を素直に、100%、完全に認めてしまっては、社会というのもが成立しなくなる。どこかで「ここから先はダメ」という線引き(具体的には法律)で縛ることで、本能のままの殺傷行為を未然に防ぎ、社会に永続性が生まれることになる。「捕鯨反対や動物愛護」にどの程度の意味があるのかはわからないが、少なくとも「ここから先はダメ」という、理性にもとづく線引きのひとつだとは思うから。

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しかし、ここで話題にしたいのは、そういう「業」に根差した残虐性のことではない。残虐行為に快感を覚える人、そこまでいかなくても残虐行為が平気な人というのがこの世に結構いるのではないかということだ。

この世は競争社会だ。「序列」「順位づけ」の世界。受験やスポーツ競技などわかりやすいものから、ライバル企業に勝とうと考えている企業、限られたポストを争っている会社員、仲間の中で「いいね」の獲得数を自慢したい人、クラスで人気を獲得しようと狙っている子供、PTAの集まりで一番綺麗だと言われたいお母さん、お金持ちと言われたいお父さん、とにかくこの世は競争で満ちている。

そういう競争社会では、「自ら努力して」序列の上に行こうという人が大半だとは思うが(思いたいが)、なかには「ライバルを妨害して」序列の上に行こうという人が出てくる。

マウンティング女子という言葉がいっとき流行ったが、マウンティングをするのは女子に限った話ではないだろう。さらに言えば比較広告の類だってマウンティングといえなくもない。でも、「ライバルへの妨害」は、もしかしたらまだ競争の範囲かもしれない。極端な話、ライバル同士がお互いにマウンティングし合えば対等ともいえるから。醜い争いには違いないけど。

残虐性という言葉が想起されるのは、ライバルですら無い、序列の下の人を馬鹿にし、虐め、貶めることで、自らの歪んだ快感を満足させようという行為だ。さらにそこに「大義名分」が付加されると残虐行為には歯止めがなくなる。

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『インディオの破壊についての簡潔な報告』という岩波文庫がある。薄い本なのですぐに読了できそうだが、全てのページが想像を絶する残虐行為に満ちていて、1ページ読むのに相当な気力が要る。スペインという(当時の)超大国・文明国から乗り込んで来た数十人の男たちによって、大量殺人・大量強姦・大量略奪が容赦なく繰り返され、暴力行為のみで温和な国1つを滅亡させてしまったという記録だ。戦争では無いから銃で撃って一撃で殺したりもしない。残酷度を競うレジャーのようにえげつない暴力と殺戮と強姦が繰り返されたのだ。母国スペインの繁栄のためにという大義名分に裏打ちされて。

『インディオの・・』は16世紀の、想像を絶する実話のようだが、20世紀のナチスによる大量殺人や、(実話だとすれば)南京大虐殺、ソ連共産党による弾圧なども「人類はここまで残酷になれるのか」という証拠かもしれない。今世紀に入ってからもISのニュースなどを仄聞すると、規模は違えど同様の「大義名分に名を借りた残虐行為」が繰り返されているのかもしれない。

しかし、21世紀の日本、民度もずいぶん高くなったニッポンではさすがにその種の行為は無いはず。

・・と思っていたら、意外なところで、その疑似体験をしてしまったのだ。具体名は伏せるが、ソシャゲ(ソーシャルゲーム)の世界。たいていのゲームプレイヤーはライバルとの対戦を楽しみ、そこにはある意味スポーツにも似た爽快さがあるのだが、一部の歪んだユーザは「弱い相手に粘着して限りなく叩きのめす」ということに快感を覚えるようだ。相手が降参と表明していようが、ゲームを始めたばかりの新人だろうがお構いなし。そして自分の行為を「(自分の属する)グループが大量得点して序列を上げるため」という大義名分をかざして正当化する。

「大義名分さえあれば、思う存分残虐行為を働いても平気な人がいる」のはなぜだろう?
「おおかたの人は、たとえ大義名分があっても、残虐行為を働かない」のはなぜだろう?

子供時代のしつけの差?人生経験の差?あるいは遺伝子が違う?ぼくにとっての永遠のテーマのひとつかもしれない。