ヒトラー最期の12日間

2004年の映画で実は今まで観ていなかったのをたまたまHuluで見つけて観てみた。ヒトラーが腹を立てるシーンは夥しい数のパロディ動画が動画サイトにUPされていてそちらは散々目にしていたのだが、そういえば本編を観たことがなかったということに今さら気が付いたわけだ。

ナチスのHQに視点を据えた映画だが、積極的にナチスを批判する作品ではなく、もちろん擁護しているわけでもなく、敢えて言えば「独裁者の悲しい末路」の姿を細かく描きたかったのかなとも思うが、ぼくは別に作品批評を書きたいわけではない。

シーンの大半が地下司令部の中でもあり、屋外のシーンもそのほとんどが砲弾飛び交い、土煙が舞い上がるシーンばかりだったせいもあるのだろうが、最後のあたりで少しだけ出てくる青空と廃墟のシーンが、たまらなく美しく思えたのだ。青空といっても澄み渡るような空ではなく、廃墟といっても石造の構造物の跡が多少並んでいる程度で、客観的に見ると「何の変哲もないシーン」かもしれない。

どうしてそんな光景が美しいと思えるんだろう?と、映画そっちのけで思考がそっちに向いてしまった。

どうやら鍵は「石」という点にありそうだ。自然のままの石ではいけない。一度人間の手が入って何らかの加工がなされた石だ。どうもそれらの石には、人間の手を経ながら人間を超越した何かがあるような気がするのだ。

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どこで見たのかはすっかり忘れてしまったが、同じ第2次大戦後、爆撃などでボロボロになったワルシャワの石畳の舗装道路を、生き残った人々が1枚1枚、手で修復しているというモノクロ映像のシーンを覚えている。そしてその光景に、ベートーベンの第7交響曲の第2楽章が何故か重なって想起されてしまう。

第7は、「愛と哀しみのボレロ」で印象が強い第4楽章など、スピーディでリズミカルな、流れるような印象が強いと思うが、第2楽章だけは別だ。とはいえ、これも最近の速いテンポの演奏だと他の楽章と大して印象が変わらないかもしれない。昔懐かしいワルターや、さらに遡ってモノラル録音の時代のフルトヴェングラーなどのゆったりとした演奏での印象が上記の映像に激しくマッチするのだ。バイオリンの和音がまるで人々の慟哭のように聞こえてくる。

戦争という、夥しい人々の慟哭を生じさせる悲劇を超えて前に進まざるを得ないという運命、あるいは進めるのではないかという希望が、石畳や、人の作った石造物には宿っているという気がする。仏像にしても、木像や塑像よりも、石像に魅かれてしまうというのも、そのせいかもしれない。

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・・・と、あくまでもぼくの主観中の主観がどんどん想起されてしまったという変な体験ができた映画だった。まあ、共感する人はいないかな。