GOTOキャンペーンとファクターX

TVを観なければいいんだろうけど、つい観てしまうとGOTOキャンペーンをめぐるロクでもない報道や番組が多くて唖然としてしまう。

政府は誰からの圧力なのか知らないが馬鹿の一つ覚えのように「GOTOキャンペーンは絶対に実行する」と繰り返しているいっぽう、都知事をはじめ各自治体の長や、さらに市民へのアンケートでも「時期尚早」という意見が多い。

で、ぼくの考えは「そういった議論や報道そのものが無駄」というもの。

政府がどんなキャンペーンをやろうが、感染対策に自信が無かったり時間やお金に余裕が無い人はキャンペーンを無視すればいいし、それなりに自信と余裕がある人は、感染対策をきちんとやっているという受入れ先に旅行すればよい。それだけの話なのに、なぜこれが大騒ぎになるのかがわからない。

「(感染者が増え始めている)こんな状況で旅行に行けというのか!」という声を何度も耳にしたが、誰も「全員もれなく旅行に行け」なんて言っていないはずだ。どうして政府がキャンペーンをやると、国民全員が旅行に行くことになってしまうのか??

自粛警察騒ぎのときにも強く感じたことだが、日本人は本当に「お上に弱い」とつくづく思う。ロックダウンなんかされなくてもお互いに見張りあって「自粛しない人は非国民だ」という流れを作り出す気持ち悪い国民性。

そしてその流れをさらに煽り続けたのがマスコミ。日々公園やビーチにカメラを向けては「遊んでる親子連れがいますね!」「ビーチで遊んでる若者がいます!」と、まるで犯罪者の犯罪行為を特撮しているかのように報道し続けた。

本当に悪だと思っているのだったら本人たちにきちんと注意すればいいのに、遠くのほうから顔だけはわからないようにこっそり撮影し続ける陰険さ。SNSなどでの匿名誹謗中傷に通じるものがありはしないか?

もちろん同調圧力大好きな国民性にもメリットもあって、「政府が何を言おうが俺のことは俺が決める」という国民性のフランスやアメリカでは、ロックダウンが行われていてもあっという間に感染者が激増してしまった。日本では、政府や都知事が「自粛しましょうね」というだけで、県境を越えて物流を支えているトラックまで勝手に犯罪者認定して石を投げつけるような愚かな狂信者が出てくる始末だ。

山中教授が問題提起されている「ファクターX(日本人に感染者が少ない謎の要因)」は、ぼく自身は個人的に結論が出ている。「お上の言葉を盲信して思考停止したがる国民性」に尽きると思っている。

「お上が外出自粛を呼びかけた」というだけで、まるでそれが至上の命題であるかのように受け止め、自ら自粛警察に着任して他人に同調圧力をかけようとする国民性こそが、今回の感染速度鈍化に寄与したのではないか。

なので、GOTOキャンペーンについても、「自分の選択肢が1つ増えた」と受け止めるのではなく、「お上から旅行を指示された」かのように受け止めて「冷房と暖房を同時にかけるなよ」と右往左往して大騒ぎ。

どうしてそんな国民性なのかは、農耕民族であったこととか、封建時代が長かったとか、一神教でなかったこととか、儒教の影響とかいろいろ想像できるが、ここでは省略。

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「大雨で被災している人たちも大勢いるのにこんなときに旅行なんて不謹慎だ」という人もいる。そう思う人は旅行しなければいい。それを他人に強制しようと同調圧力をかけようとするから話がややこしくなるのだ。

コロナも大雨もなかった時、個人的に、家族の誰かが亡くなったというような人は旅行なんかする気分にはならなかっただろうが、だからといってほかの誰かが旅行するのを咎めたりもしなかっただろう。

「被災している人たちのことを考えろ!」と声高に言っている人たちは、コロナ前に世界中でどれだけの人たちが戦争や天災や疫病や暴力で不幸な亡くなりかたをしていたかは無視するのだろうか?世界のすべての人があまねく幸福になるまでその人は旅行しないのかな?

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GOTOキャンペーンに反対なのか賛成なのかは知らないが、「商業活動を阻害するつもりはない。わざわざ遠くまで旅行しなくても東京の人たちは東京近辺で小旅行を楽しめばいい。近所のホテルに泊まってみるのもいい経験だし(キャンペーンの)補助も出る。首都圏を出ないようにしよう」と、まるで賢い提案のように主張する人もいる。

こんなお馬鹿な意見も無いのではないか?

重要なのは感染者数を急激に増やさないこと、感染対策をすることであって、県境を越えるかどうかはどうでもいいはずだ。東京で医療崩壊して100万人が死ぬのは自業自得だが、他県で1人の感染者も出さなければそれでいいということなのか?

あるいは、県内で同県人が感染しあって患者が増えるのはOKだけど、他県の人からは感染したくないという妙な純血主義なのか??

ほんと、くだらない・・・・

正しい情報と胡散臭い情報

以前の記事にも書いたけども、TVを見ていると依然として胡散臭い情報だらけだ。『トイレットペーパーがなくなるぞ』というような、心ない人の悪質なイタズラがデマとして広まった、というようなものではなく、自ら学識経験者としての誇りに満ちているかたがたが平気で胡散臭い情報を流している。

今回の緊急事態宣言延長にあたって、『専門家会議』は、「実効再生産数が1を下回った(=感染者数は今後減少する)」ともっともらしいことをおっしゃる。もちろん、どうやって算出したかなどという根拠は示さない。

しかし、「感染者数」が減少傾向であれば実効再生産数は1を下回るに決まってるのだ。要するに「減少しているように見える」と言えばよいのに、わざわざ素人を煙に巻くような言い換えをする。

そして、根本的な問題がある。何度も書いたが、「本当に感染者数が増加しているか減少しているかなんてわからない」のだ。とにかく検査数が圧倒的に少ないので、日々の感染者「数」はほぼ検査数に比例している。(5月になったというのに東京では平均して1日300人程度・・東京の人口をいったい何人だと思っているのか・・・)

しかも検体採取数は増えても、検査する技師が足りないうえ、働き方改革なのか何なのか、土日祝日は検査していないようなので週明けの感染者「数」はいつも少ない。4月末に少し感染者「数」が減ったのは、単純に4月末からの連休で、検査者のお休みも増えただけではないのか?

判断の根拠になる数字の精度が貧弱なので、為政者もロクな指示を出せない。苦し紛れに「県境を越えて移動するのは危険」などという、予防とはまるで関係ないことを真顔でおっしゃる。都道府県ごとに何かの競争でもしているのか?『外出自粛』自体には、直接的ではないとしてもそれなりに意味があるだろうが、「県境」を越えた瞬間に何か起きるのか?

そしてその馬鹿馬鹿しい要請を真に受けたヒマな人たちが「県外からの移動を食い止めることこそが問題解決」と勘違いして大騒ぎ。知事自らが県境に立ち、「俺が陣頭に立って敵を食い止める」と言わんばかりの滑稽なパフォーマンスだ。ウイルスという見えない敵が「移動者」という見える敵にすり替わったことが嬉しいのだろうが、見ていて本当に見苦しい。みっともない。

県境で、人々の生活を支えている物流トラックに石を投げてみたり、インフラを支えている技術者や管理者の移動を、まるで敵国からのスパイのように扱うヒマや金があるのだったら、県内の飲食店をきちんと救う努力をすべきだろう。

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そんな鬱々としたニュースばかり目にしていたときに、目が覚めるような素晴らしい情報に巡り合った。僅か数日で再生数は100万を超えるような人気動画なので、ご存じのかたも多いと思うが貼らせてもらおうと思う。

1)マスクは何回まで洗って使えるか?電子顕微鏡で観察してみた結果・・・衝撃の事実が!

2)コロナウイルス飛沫を見る装置を作って布マスクの効果を調べた結果!

いずれも、市岡元気さんの「GENKI LABO」の動画。「専門家」の先生様たちが想像と憶測だけで「不織布マスクは一度使うとフィルター機能が低下するので再利用できない」と断言してきたが、そういった妄言を明快な実験で切り捨てる痛快な動画だった。

こういう「根拠のある」実践的な動画こそ、本当に私たちを救ってくれるような気がする。

今年の秋まで生き延びるために

政府や都が今からどんな宣言を出すとしても、「この秋には」と期待されているアビガンの自由化までは、(ほぼ)安心して感染できるような事態は訪れない。仮に秋までに奇跡が起きて「新規感染確認者数ゼロ」の日が来たとしても、そんな短期間で国民の大半が抗体を持つようになっているわけがないので、海外からウイルスが再侵入してきた時点で元の木阿弥だ。

政府や都が何と言おうとも、3密を避ければ予防できるとか、3日に1度、買い物にしか外出しなければ予防できるというような単純で馬鹿げた話もあり得ない。
逆に、毎日、3密の職場に通勤せざるを得ない場合でも、きちんと予防措置を講じれば予防はできるはず。

迂遠なスローガンに盲従した結果、感染して重症化し、多くの人に迷惑をかけるようなことはなんとしても避けたい。手洗い・うがいもソーシャルディスタンスも迂遠すぎる。とにかくこの秋まで、自分なりに呼吸器を守り(1つ前の段階として目鼻口を守り)、健康に生き延びるための具体的な予防策を考えてみた。

ツールも必要だ。マスク(顔を素手で触らないための有用ツール。そして何より拡散防止)は基本装備、アルコール除菌ティッシュ(or アルコールスプレー)は常に携帯。その他諸々。詳細は下記。

■外出時の予防
1)移動
近距離で好天であれば電車やバスは使わず、自転車を使うこと。電車やバスでは「会話」は無いとは思うが、万一騒いでいる集団に遭遇したりしたらとにかく避ける。新幹線であれば指定席ではなく、自由に移動ができる自由席に限る。飛行機は自粛期間の今なら安全快適だが、通常の混み方になってきたら使わない。

また、ウイルスが付着した座席や吊革などを触らざるを得ないこともあるだろう。パスモが使えなくて券売機を使わざるを得ない場合もあるかもしれない。エレベーターのボタンやドアノブも同様。しかし、触っただけで皮膚感染するようなものでは無いのだ。とにかく意識的に「(汚染された)手で顔を触らないよう」にする。そのためにも布でも良いのでマスクが有用。

2)会議・打合せ
常に予備のマスクを持参し、万一相手がマスク無しだった場合には即進呈して着用してもらうこと。打合せ中に顔を触らないのは大前提。特に出されたコーヒーなどの食器を触った後。

3)外食
入店時にまず除菌(迷惑かけないため)。外食するのは加熱調理したものに限ること(ウイルスは70℃もあれば死滅する)。箸やフォークなどの手に触れる食器は、アルコール除菌ティッシュで拭ってから使うこと。精算時に現金授受などがある場合は、授受後に手を除菌。

4)会食・飲み会
できれば避ける。飲食している間は「マスクをはずさないといけない」というのが最大のネック。どうしても避けられない場合は「マスクをはずしている間は喋らない/喋らせない」ように気を付けるしかない。

5)喫煙
外出時の喫煙は我慢する。手指と口腔がもっとも近接するという危険なシチュエーション。どうしても我慢できない場合はまず手を念入りに除菌してから喫煙すること。

6)買い物
入店時にまず除菌(迷惑かけないため)。商品を手に取り、精算が終わった時点で手を除菌。

7)その他、自分の持ち物でないものに触れた際は適宜除菌。

・・・とにかくアルコール除菌ティッシュか小さなアルコールスプレーは肌身離さず持ち歩くこと。
アルコール除菌ティッシュが異様に入手困難なので、通常のティッシュにスプレーでアルコール噴霧するしかないかも。

■帰宅時の予防

ウイルスまみれで帰宅したと想像してみる。

ドアを閉めたらいの一番にアルコールジェルで手を除菌。除菌が済んだらリセッシュを手に取って「ドアノブ」と「衣服」を除菌。
着替えが必要な場合は、除菌後に着替えること。この時点ではまだマスク装着したまま。

マスクは向こう半年間を残り60枚でやり過ごすために、再利用が前提。

マスクをはずしたらフックにぶら下げてクエン酸除菌。しばらく放置したのち、超音波洗浄器で「ティーツリーの香り付き」で洗浄。洗浄が終わったら陰干し。

超音波洗浄はあまり素材を傷めないようだ。これについてはいずれ詳細も書いてみたい。

TV観ているともどかしくてストレスが溜まる

TVをつけると、どのチャンネルもコロナ一色なのは仕方が無いとしても・・・

「なんでそんなこと言うかな?」と思えることが多くてストレスが溜まるので書いて発散してみようかと。

(1)感染者「数」
諮問委員会の尾身会長、たぶん相当に高名なドクターなんだろうと想像するけれども、そのかたにして『感染者が急増している』『5日で感染者が倍増した』などと言う。

どうして分母(検査数とか潜在感染者数とか)を無視するんだろう?検査数が増えれば検知できる人数も増えるのは当たり前ではないのか?あるいは「潜在感染者数10万人のうち、やっと5千人を特定できた」とどうして考えないのだろう?

もしかして、検査対象になっていない圧倒的大多数の中には感染者がひとりもいないと信じているのだろうか?

(2)最低7割目標8割(の接触減少)
もはや突っ込みどころが多過ぎて開いた口がふさがらない。

北海道大学のなんとかいう研究者のシミュレーションで「接触を8割減らすことができれば、感染は急速に収束する」という衝撃的な折れ線グラフを鵜呑みにして喜んだ政治家が飛びついた。

シミュレーションなのだから、前提にしたパラメータがいっぱいあるはず。パラメータ次第で結果はどのようにでも変わるのに、それらを全く開示せずに結果だけ示すというのはいかがなものか??研究者としてこのように世間に流布されて良心の咎めは無いのだろうか?あるいは単に「これで有名になった」と喜んでいる愚か者なのか??

そもそも「現実世界でどうやったら8割減らせるか」が多分誰にもわからない。
「毎日規則正しく10人の人と1時間ずつ会話していた人が8割減らして2人としか会話しない」という、中学校の物理のテストによくある「摩擦と空気抵抗は無いものと仮定する」というのと同じ計算をしてるだけではないのか!

しかも「最低7割目標8割」などという、わずか10%の差を意識するような精密な測定を一体どうやってできるというのだ?言ってる本人も馬鹿馬鹿しいと気が付かないのだろうか??

そして根本的には「接触を減らす」のは、感染「機会」を減らしているだけで、予防とは関係ないということだ。仮に10人会ってた人が2人に絞れたとして、その2人と飛沫を飛ばしあって会話すればアウトだろう。また、会わなくした8人の「所持品を触って、その手で自分の顔を触れば」それだけでもアウトのはず。

「直接的な予防」に触れることなく、机上の空論に空論を重ねているとしか思えない。
大丈夫かニッポン???

(3)「時間短縮」営業・・・
テレワークの理由はわかる。営業自粛要請もわかる。しかし、「営業を認めておいて時間短縮」の意味がまったくわからない。

もちろん、「サラリーマン社員」の立場で考えれば、10時間勤務よりも6時間勤務のほうが対人接触機会が減るということにはなるのだろうが、世の中のすべての職業人が内勤の事務職だとでも思っているのだろうか?
戸越銀座商店街のニュースが流れていたが、どのお店も時短営業をするものだから、「店が開いてるうちに買い物を済ませなくちゃ!」という客が殺到して、いつもより混んでるようだ。何をやってるんだか・・・

必要なのは時短では無く「分散」ではないのか?内勤だろうが客商売だろうが、これまで10人が一斉に朝9時から18時まで働いていたのであれば、常時出勤人数を7人にして朝6時から夜10時まで「交替で」薄く長く働くべきだろう。
何のために電車やバスが早朝から深夜まで通常営業しているのか?
早朝夜間の乗客が激減して、日中が時短勤務の客で混雑しては意味ないのではないか?

(4)「有識者のお言葉」を鵜呑みにするマスコミ
よくわからない要請をさらにわからなくするのがマスコミだ。ロックダウンとかオーバーシュートとかいうセンセーショナルな単語が大好きで、感染者数に一喜一憂して大騒ぎすることが視聴率に結びつきやすいのかもしれないが、情けない番組が多過ぎる。ホントに大丈夫かなニッポン・・

新型コロナについて思うこと(情報操作)

(今日は4月3日)

先日、新型コロナについて「何か変だぞ」と思ったことを2つ立て続けに書いたけれど、考えてみればぼくですら考え至る程度のことを、政府がわかっていないとは思えない。というか、わかっている人はそこらじゅうにゴロゴロいると考えるべきだろう。

それなのに、「具体的な予防方法」を説かず、「外出自粛」みたいな、単に感染機会を減らすことしか呼びかけないのは何故なのか。予防方法を繰り返し報道すれば良いのに、感染者数とか海外の衝撃映像ばかりが繰り返し報道されるのは何故なのか。

そのヒントが、総理が布マスクを全戸配布すると宣言した際の「国民に安心感を与えたい」という言葉に集約されているような気がする。(「予防できる」ではなく、「安心感を与える」という点がポイント)

マスクに一定の効果があることは明らかなのに、「マスク無意味論」が3月頃まではずっと幅を利かせていた。WHOがそれに口添えしたかのように「マスク無意味」と言ったのも追い風になったのだろう。
それが「全戸配布」が決まった途端、あんな小さなガーゼマスクですら「一定の意味がある」という有識者?が続出し始めた。

・・・ということは?

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振り返ってみれば、マスク無意味論が幅を利かせていたときですら、マスクの買い占めや高値転売が後を絶たなかった。これが「マスク必須」などと当時から報道されていたら、買い占め騒動は収拾がつかなくなったのではなかろうか。逆に、「入手できなかった人たち」が過激な暴動に走ったかもしれない。

『国民に安心を与える』という言葉は本当に曲者だと思う。

オリパラ延期もその1つだろう。これはマクロ編でも書いたが、どう考えても来年7月までに世界中のコロナが終息しているという確証なんか無いのに、「いつになるかわかりません、状況次第です」では言われたほうは不安だらけなので、嘘とわかっていても「2021年7月開催決定」と言ってくれたほうが安心なのだろう。

外出自粛という、直接的な予防とはほど遠い、単に「感染『機会』を少し減らす」だけの要請が繰り返されるのも「安心感」レトリックの1つかもしれない。
飲食業やエンタメ業の人にとっては「外出自粛イコール生活不安」以外の何者でもないが、全世代全職業を対象にした要請となると、「幼児にでもわかる要請、過剰なインパクトのある要請」であるべきと考えたのだろう。

1月に90万人もの中国人旅行者が遊んでいた日本で、感染が広がらなかったわけがない。現に、屋形船クラスターは1月中旬の出来事だったはずだ。本日現在で「発覚している」感染者数は3000人程度だが、不顕性感染者は1ケタ違っていてもおかしくない。しかし誰もそんなことを大きな声で報道したりしない。

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真実を伝えることが、イコール安心感を与えることではない。東日本大震災のとき、多くの人が津波に呑みこまれたが、死体や遺体が映りこんでいる映像がまったく流れなかったのと似てはいまいか。

「真実をまじめに正確に伝えても、わかってもらえない、地味なのでそもそも報道してもらえない」
「衝撃的な真実を正面から伝えるとパニックが起きる」

・・・こんなことを前提に要請や報道がなされているから、TVを観ていてイライラすることが多いのかもしれない。

日本人の民度は高くなったらしい。1964の東京五輪の頃は、ゴミのポイ捨てや歩きたばこ、立小便までが日常の風景だったらしい。それが今や、新幹線から降りるときや、スタジアムでの観戦から帰るときには必ずゴミを持ち帰るような国民になったのだから。

しかし、どんな集団でも必ず1%~3%は「例外」がいるように、国民全体の民度がどれだけ上がっても、一定数はトイレットペーパーの買い占めに走る。無料配布される布マスクを売ろうとする輩も出るだろう。

そんな1%の連中が「ロックダウン」みたいなインパクトの強い言葉を耳にすると、一体どれほどの買い占めや転売に走るか知れたものでは無い。

なので、行政のほうも、1億2千万人のコミュニティを「安心させる」ための施策しか打てないのだろう。悲しい真実だ。

新型コロナについて思うこと(マクロ編)

今度は自分自身についてではなく、日本全体について妄想を広げてみた。

前提にしているファクトは次のようなもの

1)コロナウイルスの感染力はインフルエンザウイルスと同程度
2)一度感染しても免疫ができず、回復後でも何度も感染する
3)感染後の致死率は1%程度
  →報道されている致死率は日本では4%弱だが、何しろ、検査されていない不顕性感染者も膨大な数だろうから、1%程度としておく。
4)ワクチンも特効薬もいずれは開発されるか再発見されるだろうが、未定

——
■長期戦は必至
「インフルエンザ並みに感染し」「なんどでも感染する」ということからすれば、短期間で完全撲滅できるようなものでないのは明らかだ。山中先生がブログに書いておられるとおり、「長期戦を見越した構え、長い付き合い」が必要になるのは間違いない。

中国が「ウイルスとの戦いに勝利した」と誇っているようだが、「勝利」の定義については精査が必要だと思う。中国国内でウイルスが消滅したわけではないのだから。むしろ、「一度勝利したからには新規感染者は存在を認めない」という恐ろしい世界になっていなければいいがと心配になってくるくらいだ。

■何を勝利とするのか
勝利の状態というのは、当たり前だが、「人々が安定した日常生活を送ることができる」状態ということだ。

インフルエンザのタミフルのような特効薬が開発されて、死亡率が大幅に小さくなれば人々はかなり安心して感染することができるわけだが、それは医療や医科学の外野にいる私のような素人にとってはあまりにも他力本願な、単なる楽観的な願望だ。

なので、最悪のケースとして「いつまでたっても特効薬もワクチンも開発されない」状態で「安定した日常生活を送る」というのはどういうことなのか、を考えてみる。

■最悪のケースの想定
昔、プロジェクトマネジメントを専門にやっていた頃に刷り込まれたのが「計画は悲観的に、実行は楽観的に」というポリシーだ。特に障害が発生したときなどは「最悪のケース」を想定して動くと、不思議と最悪にまでは至らない。ところが「すぐに直る。ダイジョウブダイジョウブ」などと楽観的に構えていると、事態はどんどんと「想定外」の方向へと進んでいき、取り返しのつかないような地点まで落下していく。

そういう観点で国や都からの要請を眺めてみると、一見厳しそうに見えて「楽観的すぎるのでは?」と思えて仕方が無いのだ。最たるものは「今週の週末は外出を控えて!」というようなものだ。なんだか、「今週の週末さえじっとしていれば事態はうまくいってロックダウンも招かない」と言っているようにも聞こえるのだが。

オリンピックの「1年延期」なんかも政治的・経済的な妥協の産物としか思えない。もちろん、「何も決断できないリーダー」よりも、「何かはっきりしたことを言ってくれるリーダー」のほうが希望を託せるのかもしれないが、それにしても今の時点では説得力がまったく無い。「1年後にはコロナは収束or終息してるに決まってるから」という楽観的予想を大前提とした博打ではないのだろうか・・???

そんな博打ではなく、「最悪のシナリオでもこれこれなので開催は可能」というのでなければ本当の説得力とは言えないはず。

■最悪のケースとは
完全に素人の計算なので、1つの思い付きくらいの数字ではあるが、「インフルエンザと同様に毎年1000万人が感染し、特効薬が無いので毎年10万人(1%)が死亡する状態がずっと続く」というのが最悪のケースではないだろうか。

そんな状態になると、まず問題になるのは医療のキャパシティだ。日本全国で受入可能なベッド数はたかだか数千、人工呼吸器の空き数も1万強程度らしい。万単位での重症者をカバーできるわけがない。

だとすると、補正予算で何をすべきかは明確だ。たとえ無駄になる可能性があっても、医療器具と医療施設を大急ぎで増やすべきではないのか。ついでにいえばマスクも。

マスクの増産は経産省から全国の関連企業に呼びかけているらしいが、人工呼吸器など、喫緊の需要がありそうな医療機器の増産も急務だ。経営不振の病院を国有化して感染症専門病院に仕立て上げるくらいの緊急措置が取れないものか。

■ニューディール政策を
マスコミはセンセーショナルな話題が大好きなので、全国各地で「コロナ被害」に遭っている企業を毎日事細かに報じてくれる。

実態がどの程度なのかはよくわからないが、契約を切られた非正規職員やアルバイト要員が急増しているのは間違いなさそうだ。失業率も確実にUPするということなので、正社員が職を失ったり勤務先を失ったりしているケースも多いのだろう。

「しかし」景気次第で職を失うということは、景気次第で職を得ることもできるということだ。なので一生を悲観することはない。景気が回復するまでの間、マスクの増産や医療機器の増産、より一層ケアの必要な高齢者の介護という「突然生じた求職」に応じてもらうことはできないのだろうか?

とにかく、毎年10万人の重症患者を収容・治療できる施設と設備があれば、安心とはいえないものの、医療崩壊は免れるのではなかろうか・・・

■自粛の無意味さ
あくまでも個人的な見解だが、「3密を避けよう」みたいな施策は本当に馬鹿馬鹿しいと思う。

たとえが適当ではないかもしれないが、飲酒運転による交通事故が急増している対策に「交通信号を守りましょう」と言っているような感じがする。

もちろん、信号は守るに越したことは無いという意味で、3密も避けるに越したことは無いとは思うが、直接的な対策になっていないのは明らかではなかろうか?

しかも、特効薬がまだ開発されず、経路不明の感染者が急増している現状で「4月12日まで」みたいな期限をつけることにいったい何の根拠があるのか・・・

今の状況だと、自粛を止めた瞬間に感染拡大し、また自粛を始めるという、バカバカしい無限ループで経済の大混乱が継続する未来しか見えない・・・

「マクロな話」なので、どうしても他力本願な話になってしまうが、年間10万人が死亡することを大前提とした積極的な政策を是非望みたい。。

新型コロナについて思うこと(ミクロ編)

(今日は2020年3月28日)
新型コロナウイルスについて連日膨大な量のニュースや情報が流れ込んでくる。単なる情報だけでなく、「要請」に類するものもたくさんある。しかし、どの情報も要請も「隔靴掻痒」という言葉が浮かんでくるくらい、あまりにも迂遠で間接的な気がするのだ。そこで、自分自身がどうやって身を守るかというミクロな観点で整理してみた。

【わかっていることの整理】
世界中の研究者がよってたかって研究している状態で「まだまだ未知のことが多い」と言われている。しかし、「既知のこと」も結構あるのではなかろうか?

1)発症するのはウイルス性呼吸器感染症だということ。
 要するに「呼吸器」の病気であって、呼吸器にウイルスが入り込んでこなければ何も起きない。直接的には「鼻と口、そして(確率は低いが)目」を守ってさえいれば絶対に感染しない。皮膚感染や媒介物感染するようなものではないのだ。

2)もはや日本中にウイルスが広がっているということ
  経路不明の感染者は日々増加しているし、経路が明らかな人でも、その人が「どこでウイルスを拡散させたか」を100%トレースするなんて不可能だと思う。要するに、「あらゆる場所にウイルスがいても不思議では無い」「自分自身も含めて任意の人が感染していても不思議は無い」という大前提を持つべきだと思う。

3)ウイルスは熱に弱い。
  70℃以上に熱してやれば死滅する。加熱調理された食品であれば感染リスクは無い。ついでに食器も熱湯消毒してくれていれば外食で熱々の料理を食べるのはとても安全ともいえる。

4)ウイルスは紫外線に弱い。
  天気の良い日にあまり人がいない屋外を散歩していて感染する確率はとても低いということだ。あと、食品スーパーなどで生鮮食料品の「消毒」をするのだったら、UV照射をすればいいということなのではないだろうか?(その結果、食品が傷みやすくなるかどうかは知らないが・・・)

5)飛沫感染と空気感染(ここポイント)
  厚労省が2月くらいに早々に発表したのが「飛沫感染はするが、空気感染はしない(しにくい)」という情報だ。ただ、これはそのままでは意味がわからない。空気感染というのは「飛沫核感染」と同義だとわかったが、これだけでもまだわからない。調べると、日本では用語が定義されていて、飛沫というのは5μm(ミクロン)より大きなもの。飛沫核というのはそれ未満のものということになっている。ちなみにウイルス本体の大きさは0.1~0.2ミクロン程度。

・・・たったこれだけのことでも気づくことはある。「常識で考えて」『5.1ミクロンだと感染するけど、4.9ミクロンだと感染しない』などという馬鹿なことは無いだろう。

要するに、飛沫の粒子(以下、粒子と書く)が小さければ小さいほど(言い換えれば、乾燥していればしているほど)感染力は弱く、粒子が大きいほど感染力が高いと読み替えるべきということだ。

考えてみれば粒子が大きければその中に含まれるウイルスの数も必然的に多くなるわけだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが・・・

6)マスク
一般的な不織布の使い捨てマスクのフィルターは「5ミクロン」までの粒子を予防できることになっている。PM2.5(2.5というのは2.5ミクロンということだ)対応のマスクであればもう少し小さな粒子も防ぐことができる。

マスク不要論者(「非感染者」にマスクは不要という人)は「ウイルスの大きさに比べて5ミクロンという隙間が巨大すぎる」とか、「マスクと皮膚の隙間からいくらでも流れ込んでくる」というが、少なくとも「正面からやってくる5ミクロン以上の飛沫、すなわち感染力の高い飛沫から鼻と口を守る」ためにはきわめて有効なのではないだろうか?(まあ、顔の真横でくしゃみとかされればどうしようもないだろうけど)

それにそもそも「自分も不顕性感染者かもしれない」という疑いから誰も逃れられない以上、「感染防止」の観点からも、人混みでマスクをするのは「必須」と言ってよいのではないだろうか・・??

もちろん、「マスクで100%安全」なんてことも無いということは肝に銘じておくべきだとは思うが、闇雲に「外出を控える」ことに比べればはるかに直接的な予防効果はあると思う。

7)本当にすべきことは・・
以上のことからだけでも、3密がどうこうというような迂遠な行動制限ではなく、

「無闇に何でも口に入れない(唇も舐めない)」
「指先で鼻の穴の周りをこすったり、目をこすったりしない」
「人がいる場所では必ずマスクを着用する」

・・・たったこれだけのことを習慣づけるだけで、「感染者が人口の0.0001%もいる(笑)隣県に出かけない」というような阿呆らしい自粛要請に右往左往させられることは無いと思う。

——–変だと思う情報を思いつくままに——
A)手洗いうがいの励行
 もちろん、しないよりしたほうが多少は良いのかもしれないが、「1日じゅう」手を洗ったりうがいをし続けていない限り無意味なのではなかろうか?

手を洗っていなくても、手で目・鼻・口に触れていなければ問題無い。「外から帰って、うがいでウイルスを洗い流す」ということは、すでに気管支にウイルスが入り込んだ後ということだ。手遅れだろう。

B)マスク不要論
「マスクに予防効果は無い」という人であっても(私自身は上に書いたよう、一定の予防効果もあると思っているが)、だからといって「マスクをしない」という選択はあり得ないだろう。感染防止という効果も一定以上あるのだから。

マスク不足のご時世なので、「健康そうに見える人が着用するマスクがあるくらいだったら医療従事者に回すべき」という人もいるが、そういう問題では絶対に無いはずだ。医療従事者だけがマスクをしていれば、市中感染を放置して良いというものではないだろう。

マスクが不足しているのであれば、どんどん性能が劣化していっても、不織布マスクを消毒して再利用するほうが、新品のガーゼマスクを使うよりもマシなのではないだろうか?誰かこのあたりのデータを持っていないものか・・・

C)エアロゾル感染
いっとき注目を集めたニュース。まるでコロナウイルスが空気感染するものであるかのごとく報道されていた。しかし、エアロゾルというのは粒子の大きさについての定義が無いのだ。気体と液体の中間の状態をゾルと呼ぶが、それだけだと、水分子よりもちょっと大きい1nm(ナノメートル)から、花粉級の100ミクロンまで全て「エアロゾル」と呼んでいいことになる。こんなエアロゾルで「感染する」と言われても「そりゃそうでしょう」としか言えないのでは・・?しかも発表されていた実験は完全密室の小さな箱の中の出来事なので、「実験のための実験」としか思えない・・・

D)一斉休校(2月下旬の出来事)
安倍首相の言葉は「休業要請」だったはずだ。(何度もTVで確認した)。ところがマスコミはまるで首相が言い間違えたのをかばって忖度したかのように「休校要請」に言い換えて報道し続け、そのうち「休校」が既成事実になってしまった。

しかし、休業と休校は根本的に違うはずだ。休業というのは「授業をしない」というだけのことで、教師は出勤し、(やりかたは色々だろうが)生徒に対して通信教育を行うとか、通常以上に忙しくなることだ。一方、休校というのは教師も生徒も休み。

政府の要請で突然春休みが早まったかのように終業式や卒業式を繰り上げて、悲しそうな顔をしながら突然の休暇を満喫していた教師がいっぱいいたのではないか???

E)博物館や図書館までなぜ閉館するのか
「3密」自体も馬鹿馬鹿しい要請とは思っているが、その3密の条件すら満たさないような静かな博物館や図書館までが何故延々と休館を続けるのか?
博物館や図書館に比べれば満員電車のほうが数百倍も危険だろう。

これなども、休業を休校と読み替えて便乗休暇した教師たちと同じで、「せっかくの自粛要請という大義名分なんだから、臨時有給!」と喜んだ職員がいっぱいいるような気がする。入場者ゼロでも収入が変わらないからこそできるサボリだ。いっそ彼らの給与を、施設の利用数と連動させてしまえば少しは意識も変わるのではないか??

ちなみに、東京都中央区の区立図書館は休業していない。国会図書館や都立図書館はじめ、隣接区の図書館は軒並み入館制限して職員が休みまくっている中で。中央区立図書館でもいちおう「座席の利用は不可」とはなっているが、いつもどおりに入館できて自由に本を選べるし閲覧もできる。中央区民は、意識の高い図書館を誇って良いと思う。

時間通貨とベーシックインカム

NHKスペシャルで仮想通貨の特集があり、変わり種として?時間通貨というものが紹介されていた。

自分で調べたことも交えて書くと、2014年にスタートした「Time Ticket」という、何らかのスキルを持っている人たちが30分単位で自分の時間を売買(というか交換)できるという仕組みが皮切りになって、その後、「TimeBank」という、自分の時間価値を人気銘柄のように高値で取引できる仕組みとか、日本でも「ココナラ」という、自分のスキルや能力を切り売りできる仕組みが広がりつつあるようだ。

TimeTicketは、どうやら「すべての人の時間価値はほぼ平等」(たとえば、英語を教える代わりに料理を教えて、という感じ)という大前提のように思えるので、適用できる範囲に限界があるような気もするが、TimeBankとかココナラは、いわば自分の能力を何らかのかたちでマネタイズできる仕組みなので、「ちょっとしたアルバイト」感覚で広がっていくような気もする。配車サービスのUberなんかもある意味その仲間かも。

人によって1分の価値は異なるか?もちろん異なるに決まっている。なんらかの形で金額換算すれば、1分10円の人もいれば1分100万円の人もいるかもしれない。生産性というある程度客観的な評価も結構難しいし、美しさや快適さといった主観的な評価に至ってはもっとばらつきがあるに決まってるのだから、「人によって時間価値が異なる」のは、当然のこととして受け入れやすい考え方だと思う。イチローに野球を教わるのと、中学校の野球部で野球経験があるだけの人に野球を教わるのが等価値であるわけがない。

いっぽう、給与や賃金、労務費や作業費の見積などは、個人の個性や能力をかなり丸めて「一律いくら」で計算してしまっていることも多い。こちらを基準に考えると「時間の交換」はできなくもないのかな、という気もして来る。英語を教えるのも料理を教えるのも、どちらも時給換算したら2千円くらいでしょ?という感じか。

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・・・というような、現行の「時間通貨」の効果や是非について考えたいのではなく、「TimeTicket」の発想の原点、というか、「時間価値は平等」という考え方がとても面白いと思ったのだ。

ヒトが生まれた瞬間に、すべてのヒトに平等に与えられるものが2つあると思う。ひとつは太陽光や空気などの地球的規模での自然環境。もう1つが「寿命」という数十年の時間。もちろん、生まれつき難病の人もいるし、誰にとっても数十年の時間は「保証」されたものではないが、それでも大雑把には、生まれたばかりの赤ちゃんには、今後数十年の時間が与えられたと仮定しよう。

この「数十年の時間」の一部を国が買い上げてみてはどうだろうと考えた。すべての人は一定期間、公共の仕事に従事する義務を負う。「公共の仕事」の中に、介護や医療なども含めれば、国は財政支出を劇的に削減できるはずだ。日本の人口を1.2億人、平均寿命を80年として、そのうち2年間を「公務員」として働く義務を負うとすれば、常時300万人の公務員労働力を確保できる計算だ。

公務員といっても、役所の中で事務計算をするだけではない。国がコントロールして、その人の個性や能力を見ながら「労働力が手薄」と思われる分野の仕事に派遣する仕組み。医療や介護が筆頭だろうが、建設業や林業やITなど、毎年分野を見直していくことである種の社会主義経済のようなものが実現できる。

特に介護分野に大量の労働力が投入されることで、高齢者がいちいち医療機関にお世話にならなくても済むようになれば、莫大な医療費削減にもつながるはずだ。

そして国は浮いたお金で「ベーシック・インカム」(以下BI)を全国民に提供する。BIの考え方は色々あるだろうが、ぼくの考えるBIは、現金の支給ではなくあくまでも現物支給だ。そして現物支給といってもミールクーポンのような闇で売買されてしまうようなものではいけない。目的は「貧困の撲滅と教育・医療・介護機会の均等な授与」だ。

赤ちゃんに寿命が自動付与されたとしても、貧困が理由でその子が不幸になってしまう可能性もある。また、治療すれば治癒する病気で命を落としたり、貧困が理由で教育を受けられなかったために、能力を開花できずに社会貢献できなければ社会にとっても不幸だ。能力のある老人がケアを受けられずに社会貢献できない状況というのも同じ。

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衣食住や教育医療介護をどうやって無料で実現するかをちょっと具体的に妄想してみる。ポイントは「現物支給」であることと、「最低限の」保証であるということだ。

まず食は各自治体に町内単位くらいで「食堂」を設け、本人が直接「料理」をもらえる仕組みにしてはどうだろうか。衣類に関しては例えば人民服のような画一的なデザインにしてしまえば、積極的なニーズも無いだろうし、妙な売買も無くなるはず。住に関しては老朽化した公的住宅や放置された空家などを利用した「快適とは到底言えないが雨露は充分しのげる」ものを提供。

教育は義務教育期間はもちろん無料。医療や介護費用は「収入に応じて」負担率を決める。
エネルギー(水道光熱費だけでなく電話やネット利用料も含めて)については、基本は現在と同じ出来高請求だが、家族の人数に応じて「無料枠」を設ける。最低限の利用に留めれば原則無料になる仕組み。

など。

要するに、「生きてはいけるが、こんな生活をいつまでも続けるのは嫌だ」と思えるところがポイントだ。

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『BIが充実したら、誰も無理して働かなくなるのでは?』『結果として国力が衰えるのでは?』という当然の疑問もあるだろう。

しかし、人は競争が好きなのだ。BIだけでは「生理的欲求」「安全の欲求」は満たされても、それ以上の欲求を満たすのは困難だ。

とにかく「何かやろう」と思うと、どんなに些細なことでもお金がかかる。カラオケに行くにも飲みに行くにも旅行に行くにも、BIだけではどうしようもない。「普通の生活」をしようとするだけでも、今と同じように働かないといけないはずだ。

もちろん中には「貧乏でもいいから、一生詩を書いて暮らしたい」というような人もいるかもしれない。それはそれでいいと思うのだ。詩人に限らず、アーティストと言われる人たちは今でもいきなり売れるわけではないだろう。アーティストを目指した多くの人は「生活優先」で挫折していったのではないだろうか。

それがBIによって「最低限の生活が保障される」のであれば、自分のやりたいことをとことん追求でき、やがては芸術大国になれるかもしれない、などとも思った(笑)。

みさきめぐりのとしょかんバス

表題は岩崎書店の「としょかんバスシリーズ」の絵本の名前。舞台は北海道の根室市立図書館。としょかんバス「あすなろ号」も実在のバス。このシリーズでは他にも北海道標茶(しべちゃ)を舞台にした「大草原のとしょかんバス」とかもあるようだ。作画は絵本作家の梅田俊作氏だが、作者の松永伊知子さんは根室市の図書館司書。

変な話だが、絵本を知らなくても、あるいは読まなくても、このタイトルだけで優しい想像を掻き立てられないだろうか。人の持つ優しい部分だけが詰まった本のような・・・
実際手にして読んでみると想像どおり、『やさしいきもちに ひたりながら、あすなろ号は としょかんへ かえります。』と書かれているよう、仄かな温かみが伝わってくる本だった。

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というわけで?この絵本に触発されただけではないのだが、根室市立図書館と、(あすなろ号の目的地でもある)納沙布岬を訪れてみた。図書館ではたまたまちょうどあすなろ号が出発準備を整えていたところだったし、作中の「岬の少し手前の小学校」、現在廃校になっている珸瑤瑁(ごようまい)小学校跡も車窓から見ることができた。

9月下旬だったので、どこに行ってもナナカマドが美しい実をつけていたが、もっと気になったのが大きな蕗(フキ)の葉。中標津空港から根室市街に向かう国道沿いのみならず、ありとあらゆる道路沿いに蕗が育っている。

絵本の表紙でも(下図)本を手に嬉しそうに笑っている子供たちの中に大きな蕗の葉を傘にしている子供もいる。蕗の傘といえばコロボックル(アイヌの伝承に登場してくる小人)。ハワイの伝説の小人メネフネと同様、とっても有能だがとってもシャイな人たち。コロボックルの正体については諸説あるようだが、和人よりも昔から北海道に土着していた人たちであるのは間違いないのだろう。

根室といえばもちろん漁業の町で花咲ガニの産地としても有名だ。あるいは北方領土と隣接した望郷の地というか。絵本の中では、司書のクマおじさんとみっちゃんがバスで色んな人たちと出会っていくのだが、クマおじさんは国後島の出身、『根室もいいけど、島はもっといいぞ。でっかいカニやホタテはわんさかとれるし、けしきもよくって おんせんもでるし』とも語っている。

たった数日訪れただけで何がわかると言われそうだが、ぼくの印象としては、「根室市」は結構整備された都市で、漁業の町なんだろうけども、「根室という土地」は、大湿原や大牧場や原野が広がる雄大な美しい土地、というものだった。

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実は前後して読んだ本に「一九四五 占守(しゅむしゅ)島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場」(相原秀起 著)という、太平洋戦争で日本が無条件降伏をした『後で』攻め込んで来たソ連軍と戦った日本軍の記録がある。占守島というのは、北方四島よりも遥か北、カムチャッカ半島と向い合せになっている北千島の北端の島のこと。

戦史としての内容は省略するが、北緯50度という極寒の地の、夏の風景の素晴らしさが何度も「天国」として描写されているのが気に留まった。短い夏の間に、可憐な高山植物が一斉に咲き誇る美しさ。実は根室でも短い夏の間に色んな花が一斉に開くようで、9月下旬というのに満開のアジサイや、タンポポなども目にすることができた。北千島はもちろんのこと、国後島も、そして根室も、本来「とても素晴らしい景色」の場所だったのだろうと想像が膨らむ。(もちろん冬の厳しさは半端ではないのだろうが)

完全にぼくの持論で、根拠を問われると困るのだが、ぼくは『人の心の優しさは、住んでいる場所の美しさに比例する』と信じている(笑)。住んでいる場所がすさんだ風景だと、心もすさんでいく気がしてならない。

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ついでに書くと、ぼくの脳内では北海道の歴史は以下のような階層でできている(^^)。

・美しい風景と共存していて、社会組織も大きくなかったコロボックルの時代
・社会組織が大きくなってきたとはいえ、それでも風景と共存していたアイヌ大首長の時代
・和人がアイヌ社会の中で共存していた時代(アイヌ > 和人)
・和人が「開拓」を始めて、アイヌを迫害した時代(和人 > アイヌ)
・アイヌの主権が無くなり、日本人が日本の土地とした時代
・日本がソ連/ロシアと争って戦争や国境紛争を起こしている時代、現代。

・・・こう考えてみると、北方四島のみならず、千島や樺太は本来誰のもの?という気がしないでもない。

ママチャリ改造効果あり

半年ほど前、とある事情で自転車(ママチャリだと思うのだがシティサイクルとかいうらしい)を衝動買いしていた。

都心で過ごしているとたいていの場所にはすぐ電車で行けそうなものだが、意外とそうでもなかったりする。直線距離だと1キロちょっとしかないのに、電車を1駅ずつ乗るような乗継ぎをした上に結構歩かないといけない、など。

そういうとき、今さらながら自転車が便利だなと思い直して重宝していたものの・・ここ中央区は一昔前は海の中、または海沿いだったということもあって運河だらけ。そしてもちろん橋だらけ。橋というのは構造上仕方がないのかもしれないが、どうしてあんなにアップダウンになっているのだろう・・朝潮大橋や新大橋なんてちょっとした小山を上るようなものだ。自転車にとってはキツイことこの上ない。

どうやら道幅が広いほどアップダウンも大きくなるようで、旧:楓(かえで)川、現:首都高都心環状線をまたぐ橋など、片道3車線の八重洲通を通している久安橋はちょっとした勾配になっているが、名も無い通りを通している松幡橋なんていうのは、完全に平べったい橋で、心の底から嬉しくなる。

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そして今さらながら、坂道を上るのが大変なのは、自転車のハンドルがいわゆる「かもめハンドル」で、グリップが手前に向いているせいで力が入りにくいからではないかと気が付いたのだ。力を込めると手がすっぽ抜けそうになる感じ。

ハンドルをロードバイクのようなストレートタイプにすれば力も入れやすくて解決するはず・・・と思い、まずは自転車の買い替えを考えた・・・が、結構高い。ママチャリの数倍の価格。遠方までサイクリングを楽しもう、とまでは考えていないのでちょっと躊躇。

しかもロードバイクとかは軽量第一なので、前カゴはもちろん、チェーンカバーすら無いものがほとんどだ。大昔、子供時代はよく自転車に乗っていたのだが、当時ちょっとカッコつけてスポーツ車(当時そんな呼び方だったと思う)みたいなものを使ってて、チェーンカバーが無いためにズボンの裾が巻き込まれたり、オイルが裾に飛び散ったりして親から散々文句を言われていたことを思い出した。

どうして部品が少ないくせに高いんだ?女性の水着でも生地代がほとんどゼロじゃないかと思えるようなビキニ水着のほうがワンピース水着よりも高いのと同じ原理か??

で、いちおう念のため、ストレートハンドルをパーツとして売ってないものかと探してみたところ・・・冗談みたいにたくさんヒットした。しかも、な、何と千円!?せんえん??

もちろん値段はピンキリではあるものの、安いものであればたった千円で入手できる。こ、これは「自分で交換しなさい」と神様が囁いているようなものではないか・・・

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とはいえ、具体的にどうやっていいかよくわからない。パっと見た感じはハンドルなんてそう易々とはずれそうには思えない。すぐはずれたりしないから安全なんだろうけど。

ところが、「自転車 ハンドル 交換」とかで検索すると、Youtubeの動画がいくつもヒットするのだ。そして懇切丁寧に交換方法、さらにはグリップのはずし方のコツまで動画で教えてくれている。神か?(笑)

というわけで、結構簡単にハンドル交換ができてしまった。ついでに少し調子に乗って、前カゴもビジネスバッグがすっぽり収まるワイドサイズのものに換え、ドリンクホルダーまでつけてみた(笑)。

安直な日曜大工とはいえ意外と達成感もあるし、そして何より、思ったとおり坂道が断然ラクになった!ママチャリユーザの皆さん、ストレートタイプへのハンドル交換、是非おすすめします。