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60歳からの終身医療保険①「入院期間」

人生100年時代と言われるが、ぼくは長い間自分の人生は80年くらいかなと想像していたので、後期高齢者になった自分の姿とかはあまり想像してこなかった。しかし最近ふとしたことで、長生きしてしまう上に重い病気になる可能性もあるんじゃないかと思えてきて、ちょっと真剣に終身保険の見直しをしたところ。

都民共済(都道府県民共済)という掛捨ての保険がある。これは現役世代にとってのとても心強い味方だ。抜群にコスパよく手厚い保障をしてくれるのでこれまでずいぶん頼りにしていた。しかし60歳を過ぎたあたりから保障はだんだん薄くなり、85歳で遂に保障が切れる。後期高齢者になった後のことも考えると、残念ながら都民共済だけではしのぎ切れない。

もちろんどんな保険でも保障されるのは原則としてお金だけなので、十分な蓄えさえあればそもそも保険に入る必要が無く、あれこれ考えなくてもいいのだが、そんな自信は無い。

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「後期高齢者以後(75歳以後)の医療保障」ということに絞って考えると、どういう保険が必要になるのかわりとわかりやすい。子育ての心配はもちろん無いし、年金を軸にした暮らしを前提にするならば「休業補償」的な側面も考えなくて良い。遺族の暮らしを支える死亡保険的な要素も必要無い。また、医療費も1割負担になることを前提に考えれば、(公的保険の効かない)差額ベッドなど以外での負担は少ないはずだ。

要するに現役世代に比べてかなり軽い保険で構わないということ。

また、「〇〇発症時にXX万円」という類いの一時金タイプの特約も無くて良い。そもそも60歳を過ぎてからの加入でそういうオプションを付けても「払った分が戻って来る」程度になるのが関の山。だとするとそのくらいは普通に「貯金」していったほうがずっと融通が利く。

ただし先進医療オプションは、発症確率は低くても負担がかなり高額になるので、これは付けておいて良いと思う。そもそも発症確率が低いので特約をつけてもせいぜい100円前後のプラスにしかならない。この特約だけは終身ではなくて10年ごとに見直しが入るが、いきなり桁違いに掛け金が大きくなることはないだろう。

逆に高額な特約としては「がん/三大・七大・八大疾病などの発症時に以後の保険料免除」というものがある。これも現役世代には休業補償的な意味を持つだろうが、常に一定の収入がある後期高齢者にはあまり意味が無い。

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そして、この記事のメインテーマ「入院保障期間」の設定。

だいたいどの保険も基本形は「入院60日保障」で、選択肢としては「30日」または「120日」が選べるようになっている。また、どれを選んでも通算で1000日程度という限度は変わらない。さらに、がん/三大・七大・八大疾病については「入院期間無制限」という設定ができるものもある。

保険なので保障期間は長いほど良く、保障範囲も広いほど良いに決まっているが、当然それに応じて支払い金額も多くなる。そこでまず思い浮かぶのは、

・医学の進歩とともに平均入院日数は年々小さくなっている。なので、30日もあれば充分じゃないか?
・がんになる可能性は高いのだから、がんのときには無制限にしておいていいんじゃないか?
・そもそも八大疾病って何と何だっけ?

というあたりだろうか(要するにぼくが最初に考えたことだ)。

で、何か考えるヒントとなるものは無いだろうかと探してみたところ、厚労省の患者調査統計というデータのかたまりに行き当たった。

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厚労省が3年に一度の頻度で患者調査を行っており、最新の令和2年版がつい先日、2022年6月30日付けで公開された。(これを書いているのは2022年7末)

外来や入院の患者数と入院期間が、傷病別、性・年齢別、地域別、病院種別などいくつもの切り口で集計されており、e-Statという政府統計の総合サイトで公開されてデータをダウンロードできるようになっている。切り口は違えどベースのデータは1つなので、ドリルダウンなどができるBIツールを使えば非常に便利に活用できると思うのだが、厚労省の担当者が頑張ってさまざまな目的別に実に300種類以上の帳票に仕立て上げて公開してくれているのだ。

>> 患者調査統計(e-Stat)

これらの集計データのうち、入院期間の検討に役立ちそうなのが『87番:在院期間(32区分)別推計退院患者数構成割合(累積),傷病中分類別』というデータだ。150種ほどの傷病分類ごとに「ヒトは何日くらいで退院するのか」がわかる。

あらゆる病気について例外的に長期入院になるケースはあるものの、「9割以上の人が退院するのが何日目(何か月目)なのか」くらいを目安にしてみていくと傾向がわかりやすい。
大雑把に書くと、30日未満で退院率が9割を超えるのは全傷病の半分程度しかない。それが120日未満にすると、92%くらいの傷病が退院率9割を超える。

ということは、ベースの入院期間は30日とかは論外で、120日、目一杯にするのが正解なのだろう。

そして120日入院してもまだ退院率が9割を超えないいくつかの傷病について、すべて「X大疾病で入院無制限」でカバーできれば言うこと無しなのだが。

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具体的に見てみると・・・120日を超える長期入院になりそうな傷病は以下のとおりだった。(カッコ内は退院率が9割を超えた月数)

・結核(5カ月)
・精神および行動の障害系:認知症など5種(1年)
・パーキンソン病(6か月)
・アルツハイマー病(2年)
・くも膜下出血(6カ月)
・脳内出血(6カ月)
・脳梗塞(5カ月)

・・・以上だ。脳卒中3種は三大疾病に含まれているが、他の傷病は八大疾病にすら含まれない。ちなみに各種のがんは概ね40~50日程度で退院できているようだ。

ということは・・・入院期間無制限オプションは
・がん発症時のみ:あまり意味無し。
・三大疾病発症時:脳卒中3種が含まれるのでこれは意味あり。
・七大、八大:不要。三大でOK。
ということにならないだろうか。

そして特に入院が長期化する傾向のある精神・神経系の疾患については通常の医療保険ではカバーできないという前提で別の保険を用意しておいた方が良さそうだ。

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ちなみに、令和2年の1つ前、平成29年の統計と見比べると、3年の間に平均入院期間は少しだけ短くなっていた(1%程度)。10年後20年後にはさらに期待できるのかもしれない。

桓騎(キングダム)が魅力的

キングダムという、原泰久の超有名な漫画がある。戦国時代(BC250頃)、戦乱の続く中国大陸で、史上初めて中華の統一を成し遂げた秦王嬴政(えいせい)、すなわち秦の始皇帝と、下僕の出身でありながら彼の盟友であり、頼りになる臣下として「天下の大将軍」を目指して活躍する李信を主人公とした物語。

史記などの史書をベースとしながら、李信だけでなく、多くの登場人物を実にユニークで魅力的なキャラクターとして生き生きと描いている作品。

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たくさんの登場人物の中で、ぼくがひときわ魅力的だと思ったのは桓騎という将軍だ。野盗の頭領出身という変わった経歴で、驚くほど頭が切れるが暴力的かつ残忍。大雑把に言うと、政や信が正義の味方っぽく描かれているのに対して、桓騎は頼もしい味方でありながらも悪の権化的な扱い。

政や信も桓騎を嫌っており、黒羊丘の戦いでは略奪を行う桓騎の部下を信と共に盟友の 羌瘣(きょうかい)が斬ったことから信の武功が帳消しになったりしている。

また、平陽に向かう戦いでは大量虐殺を行った桓騎を誅するために政が駆けつけ、あわや斬首にするというシーンもある。

そこでの政と桓騎の会話が、桓騎の考え方をとてもわかりやすく示している。
怒れる秦王を前にしても不遜な態度でまったく言い訳もせず動じない桓騎。処分したいんだったら勝手にすればいいという。

そして「侵略しかけてんのはお前だよな。つまり今この世で一番人を殺してんのはお前だぞ、秦王よ」と言い放つのだ。
また、「国を一つにして戦を無くすと言いたいんだろうが、『人』はそうはならない。絶対に。」とも言う。

それに対して秦王は「それは屁理屈だ」とか「俺は人を信じる」とか何とか色々と力強く言い返すのだが、ぼくには桓騎の言葉のほうが100%正解にしか思えなかった。

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戦国時代は暴力を是とする武の時代だ。強い国が弱い国を侵略するのは当たり前で、そのために多くの血が流れるのも当然。その思想を突き詰めた結果、政は「平和のために」中華の統一を目指し、信はそれを助けながら「天下の大将軍」を目指す。

どちらも極めて困難な道ではあるものの、ある意味、当時の時代に適合した無邪気で単純な考え方だ。政や信の考え方では、民間人や投降兵を虐殺したり、町や村で略奪や強姦を行うのは「絶対悪」だ。いっぽう、他国を侵略して自軍敵軍ともに多くの犠牲を出し、結果として寡婦や孤児を大量生産するのは「善」とは言わないまでも「必要悪」。さらに強敵を屠るのは「英雄」で、論功行賞の対象ですらある。

桓騎はそこに激しく胡散臭さや偽善を感じでいるのだと思う。野盗出身の彼にとっては将兵と民間人の区別なんか無い。どちらも同じ人間で、同じように殺戮の対象だし、逆にいえば同じように貴い。
そもそもあの時代、信がそうであったように農民と兵隊を兼任している民兵も多くいた。秦の命運を賭けた蕞(さい)の戦いで、政に鼓舞されながら戦い抜いたのも民兵。すなわち一般人だ。

「人を殺してでも前に進め」という大方針の中で、「民間人は殺さない」というのは、軍人が自分たちの行為を正当化するための免罪符にしか過ぎないということを桓騎は見抜いているのだと思う。

「人を殺すのが悪なのであればそもそも侵略なんかするな。侵略されたほうは多かれ少なかれ不幸になるに決まっている。そんなところで不幸に強弱をつけて自己満足に浸るなよ」と言いたいのではなかろうか。

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大量虐殺に先立つ扈輒(こちょう)との戦いの中で、「痛みの底を知っている」という扈輒に対し、「そこが痛みの底なんて思ったお前が浅いんだよ。底なんてないんだよ、痛みに」と暗くつぶやく桓騎の姿もある。

これはほとんど哲学者の言葉ではないだろうか。ぼくの勝手な想像だが、桓騎は人間の業(ごう)のようなものにある種の深い諦めを感じているような気がする。

なので、腹心の部下から「大将軍にまでなって、どうしてそんなにいつも渇いているのか。一体桓騎は何と戦ってるんだろうなーってな」と不思議がられるシーンや、政と桓騎の会話の続きで、政が「お前みたいに何もせずに絶望などと・・・」(絶望・・?いや・・)と言葉を止めてしまうシーンがある。

これらも、桓騎の非常に深い人間観から来ていると思えるのだ。人間の性(さが)として、互いに殺し合うという性質がある以上、そこにどんなに格好の良い意味付けをしたところで虚しいだけだというような。

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野盗時代の桓騎についての詳しい記述はない。なぜか白老、蒙驁(もうごう)将軍にだけは敬意を払っているという少し不思議な描写があるだけだ。

蒙驁は人材発掘の天才という一面があったようだ。なので、いち早く桓騎の才を見抜いて自身の配下に加えたのだろう。そこでどんなやり取りがあったのかはわからないが、なんとなく進撃の巨人のエルヴィン団長が、裏社会で頭角を示していたリヴァイを配下に加えたときのようなシーンがあったのではないかと想像する。

そしてリヴァイ同様、桓騎も「人生を達観しているかのようにクール」に見える反面、身近の人間に対する情の深さを併せ持っているように思える。
さきの大量虐殺も、客観的な理由としては「自軍の戦力を上回る大量の投降者の処置」だろうが、腹心の雷土が残忍極まりない拷問にあっても何一つ喋らなかったということに対する手向けのような意味が大きかったのではと思えてならない。

バラバラにされて箱詰めにされた雷土の顔を優しく撫でて「無茶せず適当に逃げろっつったろーが。俺の言うことを聞かねーからだぞ。この・・大馬鹿野郎が」と悲しそうに声を掛けた桓騎。大量虐殺が起きたのはその直後だ。

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とにかく桓騎は、通常の武人の発想には無い、ある種の天才的な方法で戦争での勝利を重ねていく。しかし、そこには信のような無邪気さは微塵も無い。殺し合うことを是とする人間の闇を痛感している彼にとっては、たいていのことは些細なことにしか思えないのだろう。そういうクールな一面と、情に深いという一面も持っている桓騎が魅力的でないはずがないと思うのだ。

オリンピック開会式の違和感

開会式を最初から最後までテレビで観てしまった。そして色々考えさせられた。

演出の出来栄えを偉そうに論じるようなつもりは無い。コロナ禍という逆風の中、数々の制約のもとで一生懸命に開催準備を整えた関係者のかたたちには頭が下がる。

それに、演出や挨拶を抜きにしても、紛争当事国を含めた200以上の国や地域の人たちが一つの目的のために一堂に会するということ自体がすごく素敵だ。数が多いので入場だけで相当時間がかかったがまったく見飽きなかった。これは今回の東京に限らずどのオリンピックでも等しく同じ感想になるのだが。

だったら何の文句も無いじゃないかということになりそうだが、喉の奥に引っ掛かっているキーワードが、東京大会のコンセプトの1つでもある「多様性」だ。そしてオリンピック共通のモットー「Faster,Higher,Stronger」に「together」という、今回独自のワードが加わったあたり。

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そもそもオリンピックというのは戦争の代償行為ではなかったか?
さらにいえば、スポーツという行為自体が、人間の持つ闘争本能を平和裏に昇華させるための手段では無かったっけ?

放っておけば暴力で相手を傷つける可能性のある人間をスポーツという行為の中で発散させる。放っておけば国家レベルで他国と殺し合いを始めてしまう国を、オリンピック競技の中での競争に留める。

なのでオリンピックとは本質的に「戦いの場」であり、そこには必ず勝者がいて、敗者がいる。本当の戦争と違うのは、戦いに負けたからといって命まで失うわけではなく、敗者にも「次の勝者になる可能性」が常にあるということだけだ。

オリンピックのそういう獰猛な本質と、「多様性の尊重」とか「together」という上品な考え方の間にはものすごい開きがあり、場合によっては矛盾することもあるのではないかというのが違和感の中心だ。

本当に多様性を尊重し、みんなで仲良くしたいのであれば国別のメダル競争なんかになるわけがない。参加者全員を無国籍扱いにして個人の成果を競えばいい。さらにいえば、個人間の格差もなくすのであれば、そもそも競争すること自体がおかしい。順位を付けず、タイムや完成度などをある程度定量的に採点すれば良いだけだ。100mを10秒以内で走った選手を全員顕彰するという感じ。

でも、それではオリンピックは全く盛り上がらないだろう。そういうことに資金を提供しようという組織も稀だろう。「個人の事なんだったら、個人で勝手にやってくれ」ということになるのは当然だ。

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とにかく世界中の人も国も「多様性」とか「together」とかを口ずさみながらも、競争したくてしようがないのだ。だから国の威信をかけて選手を支援し、その成果発表の場としてオリンピックは盛り上がる。

ドーピングは禁止されているが、国が威信をかけて参加している以上、「合法的なドーピング」は存在する。豊かな国と貧しい国では、選手に与えられる練習環境には天と地ほどの格差がある。環境の差をはねのけるような素晴らしい才能というのもあるのかもしれないが、環境格差があるのは厳然たる事実だ。

だからアスリートにも貧富の差があり、体格の差があり、美醜の差だってある。才能や努力だけでなく、その差をも存分に活かして「強者が弱者に勝つ」のがオリンピックだ。

要するに、オリンピックとは本来「残酷なもの」のはずなのだ。まあ、オリンピックに限らず、受験戦争とか販売競争とか、「競争」と名の付くものはすべてそうなるのだが。

その残酷さをどうしても認めようとしない偏狭なクレーマーたちへの悲しい対策として「多様性」とか「together」という妙な言葉が出て来たのではないだろうか?と、ぼくは疑っている。

似たような違和感を抱いたのは、昔、「小学校の通知簿で5段階評価が無くなった」という話を聞いた時だ。高校受験や大学受験のときには容赦なく順位付けされるのに、小学校の間だけ「差別をなくす」ことに一体何の意味があるのか?

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「見かけの平等に執拗にこだわるクレーマー」がオリンピック全体を支配するようになればもはやオリンピックは戦争の代償行為にはならない。結果として本当の戦争が起きてしまうことにつながる可能性もあるのではないか。

「順位付けは醜いことだ」と教えられた小学生が、中学高校になって容赦なく順位付けされてショックを受け、「大人は信じられない」とグレてしまわなければいいのだが。

流行禁句大賞2020

毎年発表される「流行語大賞」に対抗して、「言われたら嫌」な言葉や「誰かを傷つけてしまう」言葉など、2021年には持ち越したくない言葉をみんなで考える「#流行禁句大賞2020」(主催・一般社団法人21世紀学び研究所)が、事前に選ばれた20のフレーズに対して少し前から投票を呼び掛けていた。

今日28日がその発表日で、1位は「なんで鬼滅観てないの?」になったそうだが、これらの言葉を浴びせられたほうは「言葉による暴力」で深く傷ついたに違いないが、果たして言葉を発した側は単なる粗暴犯なんだろうか?

エントリーされていたフレーズを列挙してみると気が付くことがあったので書いてみる。

1)医療従事者の子どもは保育園通わせないで
2)俺は家事も育児もやっている方
3)今日も家にいるの?
4)介護士は休むな
5)こども部屋おじさんヤバい
6)ごめんしばらく帰省しないで
7)コロナにかかってごめんなさい
8)コロナにつき外国人お断り
9)コロナはただの風邪
10)女性はいくらでも嘘をつける
11)スポーツ選手は政治的発言をするな
12)他県のナンバープレート来んな
13)なんで鬼滅観てないの
14)日本には人種差別などない
15)誹謗中傷される方も悪い
16)夜の街は全店営業を停止しろ
17)リモート授業でラッキーだね
18)リモートワークはサボるから禁止
19)レズやゲイが法律で守られたら足立区は滅びる
20)若者がコロナを広げている

まず、コロナ関連のフレーズがやたらと多い。「コロナはただの風邪」という、某大統領のような迷惑発言も混じっているが、コロナに関しては総じて「自粛警察の人たちによる同調圧力系」のフレーズだ。コロナ以外のものについては、同調圧力系(鬼滅など)もあるが、「愚かな思い込み」を真実だと信じて堂々と発言した類いのものが多いようだ。

そして、すべてのフレーズに共通しているのは、発言した側が「自分が多数の側に立っている。自分には味方がたくさんいるはずだ」と思い込んでいるということではないだろうか?言い換えれば、「誰かを傷つけてやろう」という嗜虐的な喜びではなく、自分こそが正義なのだから、悪を懲らしめなければという(愚かで間違った)思い込み。

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また実際に、客観的に見て、そんな人たちが「本当に多数の側」にいることも滅多に無いというのも注目すべき点だ。

以前、「みんなという言葉の毒」でも書いたが、新幹線の車中で回りの迷惑なんか考えずに宴会に興じるサラリーマンの4人連れ。彼らの中では「みんな楽しくやってるんだから俺たちは間違ったことなんかしていない」という心境なんだろうが、そこでの「みんな」は、わずか4人だ。

とにかく多くの人は身の回りの数人が自分と同じ考え方だと「それこそが世界の標準だ」と思い込んでしまうようなのだ。コロナでタチが悪いのは、「身の回りの数人」に加えて、「マスコミ」や「為政者」が、「越境自粛」などという子供が考えてもわかりそうな馬鹿馬鹿しいルールを有難がったりしているものだから、「正義の味方」ぶりに拍車がかかっている。

「流行禁句」には大賛成だが、これが「言葉狩り」になってしまうと、今度は「言葉狩り自粛警察」が活動を始めて「アイツが『鬼滅を観てないの』とか言った~~」と、(鬼滅だけに)鬼の首でも取ったかのようにSNSで糾弾を始めるだけだろう。

わずか数人にしか過ぎない「みんな」が、あたかも「あなた以外の全員」というように使われて同調圧力が始まる。「みんな」とは具体的に誰と誰なのか?屁理屈ではなく、「みんな」という言葉に胡麻化されないことこそが、平和への第一歩ではないだろうか?

どうせ言葉狩りをするのであれば、「みんな」という、安易な同調圧力に直結する単語を日本語から撲滅させるしかないような気がする。

本と煙草と音楽と

タイトルから受けるイメージは、「レコードやCDを聞きながら紫煙をくゆらせ、少し黄ばんだ古書のページをめくる」という、なんともノスタルジックな感じなもののような気がするが、たぶんそれは僕が昭和生まれで、そういう実体験を持っている世代だからなのだと思う。

しかし2020年末の現在、そんなアナログなイメージを持つ人たちはずいぶん減って来てるのではなかろうか。

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電子タバコの普及は著しいものがある。日本全国の統計だと5割弱ということのようだが、東京などの都市部に限れば(体感的だが)半数以上は電子タバコに切り替えているのではないかと思う。席に着くとおしぼりと灰皿が出て来るのが当たり前だったルノアールが、いまや紙巻たばこ禁止だ。

紙巻たばこに比べると電子タバコは「刺激が弱い、喫ってる気がしない」という声があるのも承知しているが、慣れればあまり気にならなくなるもので、むしろ部屋がタバコ臭くなるとか、本や家具がニコチンで汚れるという煙害やたばこ火事が激減したというメリットのほうが大きいとは思う。

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電子書籍・・・kindleをはじめ、アプリやブラウザで本やコミックを読むのが当たり前になってきた。あと、「電子書籍」とは言わないようだが、国会図書館のデジタルアーカイブのように、古地図や古書籍も手軽に検索して画面で見られるようになってきた。

デジタル化することで「場所を取らない」「劣化しない」という大きなメリットがある上、たいていの場合「検索ができる」という利便性も兼ね備えている。

音楽や映画もだいぶ以前から「レコード盤(CD」から「ストリーミング・ダウンロード」という形態に変わってきた。これも書籍と同じく「場所を取らない」「劣化しない」というメリットが大きい。

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しかし。
これが肝心なことなのだが、「もらい煙草」とか「本やCDの貸し借り」という、昔はごく当たり前だった光景が、どんどん難しくなっていると思うのだ。

これは言い換えれば、「ちょっとしたコミュニケーションの機会」が削られているということにほかならないだろうか。タバコを吸うのも一人でどうぞ、本や音楽もダウンロードしたものを他人に送ったりするのは法律違反。

音楽や動画についてはyoutubeという便利なものがあって、誰かに紹介したい曲などがyoutubeにあればURLを送るという手段も無いわけではないが、もちろんyoutube上にあるものに限られる。そして本の場合は誰かに紹介したくても「あなたも買って読んでね」という大原則になるので、ハードルがとても高くなる。

おまけにこのコロナ騒ぎでテレワークが普及してきている。「テレワーク=孤独」と決めつけるのは短絡的とは思うが、独身の男女とかは出会いの機会がかなり減ってしまったのではないのだろうか?

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20年後、「最後の昭和生まれ世代」が現役を退く頃には、「おひとり様が当たり前」という世代が世の中を動かしているのだろうか。

その頃にはもしかすると「喫煙者」自体が稀有な存在になり、「もらい煙草」なんていうのは落語のネタくらいにしかならないのかもしれない。また、「本の貸し借り」はできなくても、youtube的な図書館みたいなものが普及して、意外とコミュニケーションには問題が起きていないのかもしれない。

でも、なんとなく「一人で生きていくことに慣れ過ぎて、周りに気を配ることができない人たち」が激増する恐れもあるのではないかと少し心配ではあるのだ。。。

GOTOキャンペーンとファクターX

TVを観なければいいんだろうけど、つい観てしまうとGOTOキャンペーンをめぐるロクでもない報道や番組が多くて唖然としてしまう。

政府は誰からの圧力なのか知らないが馬鹿の一つ覚えのように「GOTOキャンペーンは絶対に実行する」と繰り返しているいっぽう、都知事をはじめ各自治体の長や、さらに市民へのアンケートでも「時期尚早」という意見が多い。

で、ぼくの考えは「そういった議論や報道そのものが無駄」というもの。

政府がどんなキャンペーンをやろうが、感染対策に自信が無かったり時間やお金に余裕が無い人はキャンペーンを無視すればいいし、それなりに自信と余裕がある人は、感染対策をきちんとやっているという受入れ先に旅行すればよい。それだけの話なのに、なぜこれが大騒ぎになるのかがわからない。

「(感染者が増え始めている)こんな状況で旅行に行けというのか!」という声を何度も耳にしたが、誰も「全員もれなく旅行に行け」なんて言っていないはずだ。どうして政府がキャンペーンをやると、国民全員が旅行に行くことになってしまうのか??

自粛警察騒ぎのときにも強く感じたことだが、日本人は本当に「お上に弱い」とつくづく思う。ロックダウンなんかされなくてもお互いに見張りあって「自粛しない人は非国民だ」という流れを作り出す気持ち悪い国民性。

そしてその流れをさらに煽り続けたのがマスコミ。日々公園やビーチにカメラを向けては「遊んでる親子連れがいますね!」「ビーチで遊んでる若者がいます!」と、まるで犯罪者の犯罪行為を特撮しているかのように報道し続けた。

本当に悪だと思っているのだったら本人たちにきちんと注意すればいいのに、遠くのほうから顔だけはわからないようにこっそり撮影し続ける陰険さ。SNSなどでの匿名誹謗中傷に通じるものがありはしないか?

もちろん同調圧力大好きな国民性にもメリットもあって、「政府が何を言おうが俺のことは俺が決める」という国民性のフランスやアメリカでは、ロックダウンが行われていてもあっという間に感染者が激増してしまった。日本では、政府や都知事が「自粛しましょうね」というだけで、県境を越えて物流を支えているトラックまで勝手に犯罪者認定して石を投げつけるような愚かな狂信者が出てくる始末だ。

山中教授が問題提起されている「ファクターX(日本人に感染者が少ない謎の要因)」は、ぼく自身は個人的に結論が出ている。「お上の言葉を盲信して思考停止したがる国民性」に尽きると思っている。

「お上が外出自粛を呼びかけた」というだけで、まるでそれが至上の命題であるかのように受け止め、自ら自粛警察に着任して他人に同調圧力をかけようとする国民性こそが、今回の感染速度鈍化に寄与したのではないか。

なので、GOTOキャンペーンについても、「自分の選択肢が1つ増えた」と受け止めるのではなく、「お上から旅行を指示された」かのように受け止めて「冷房と暖房を同時にかけるなよ」と右往左往して大騒ぎ。

どうしてそんな国民性なのかは、農耕民族であったこととか、封建時代が長かったとか、一神教でなかったこととか、儒教の影響とかいろいろ想像できるが、ここでは省略。

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「大雨で被災している人たちも大勢いるのにこんなときに旅行なんて不謹慎だ」という人もいる。そう思う人は旅行しなければいい。それを他人に強制しようと同調圧力をかけようとするから話がややこしくなるのだ。

コロナも大雨もなかった時、個人的に、家族の誰かが亡くなったというような人は旅行なんかする気分にはならなかっただろうが、だからといってほかの誰かが旅行するのを咎めたりもしなかっただろう。

「被災している人たちのことを考えろ!」と声高に言っている人たちは、コロナ前に世界中でどれだけの人たちが戦争や天災や疫病や暴力で不幸な亡くなりかたをしていたかは無視するのだろうか?世界のすべての人があまねく幸福になるまでその人は旅行しないのかな?

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GOTOキャンペーンに反対なのか賛成なのかは知らないが、「商業活動を阻害するつもりはない。わざわざ遠くまで旅行しなくても東京の人たちは東京近辺で小旅行を楽しめばいい。近所のホテルに泊まってみるのもいい経験だし(キャンペーンの)補助も出る。首都圏を出ないようにしよう」と、まるで賢い提案のように主張する人もいる。

こんなお馬鹿な意見も無いのではないか?

重要なのは感染者数を急激に増やさないこと、感染対策をすることであって、県境を越えるかどうかはどうでもいいはずだ。東京で医療崩壊して100万人が死ぬのは自業自得だが、他県で1人の感染者も出さなければそれでいいということなのか?

あるいは、県内で同県人が感染しあって患者が増えるのはOKだけど、他県の人からは感染したくないという妙な純血主義なのか??

ほんと、くだらない・・・・

正しい情報と胡散臭い情報

以前の記事にも書いたけども、TVを見ていると依然として胡散臭い情報だらけだ。『トイレットペーパーがなくなるぞ』というような、心ない人の悪質なイタズラがデマとして広まった、というようなものではなく、自ら学識経験者としての誇りに満ちているかたがたが平気で胡散臭い情報を流している。

今回の緊急事態宣言延長にあたって、『専門家会議』は、「実効再生産数が1を下回った(=感染者数は今後減少する)」ともっともらしいことをおっしゃる。もちろん、どうやって算出したかなどという根拠は示さない。

しかし、「感染者数」が減少傾向であれば実効再生産数は1を下回るに決まってるのだ。要するに「減少しているように見える」と言えばよいのに、わざわざ素人を煙に巻くような言い換えをする。

そして、根本的な問題がある。何度も書いたが、「本当に感染者数が増加しているか減少しているかなんてわからない」のだ。とにかく検査数が圧倒的に少ないので、日々の感染者「数」はほぼ検査数に比例している。(5月になったというのに東京では平均して1日300人程度・・東京の人口をいったい何人だと思っているのか・・・)

しかも検体採取数は増えても、検査する技師が足りないうえ、働き方改革なのか何なのか、土日祝日は検査していないようなので週明けの感染者「数」はいつも少ない。4月末に少し感染者「数」が減ったのは、単純に4月末からの連休で、検査者のお休みも増えただけではないのか?

判断の根拠になる数字の精度が貧弱なので、為政者もロクな指示を出せない。苦し紛れに「県境を越えて移動するのは危険」などという、予防とはまるで関係ないことを真顔でおっしゃる。都道府県ごとに何かの競争でもしているのか?『外出自粛』自体には、直接的ではないとしてもそれなりに意味があるだろうが、「県境」を越えた瞬間に何か起きるのか?

そしてその馬鹿馬鹿しい要請を真に受けたヒマな人たちが「県外からの移動を食い止めることこそが問題解決」と勘違いして大騒ぎ。知事自らが県境に立ち、「俺が陣頭に立って敵を食い止める」と言わんばかりの滑稽なパフォーマンスだ。ウイルスという見えない敵が「移動者」という見える敵にすり替わったことが嬉しいのだろうが、見ていて本当に見苦しい。みっともない。

県境で、人々の生活を支えている物流トラックに石を投げてみたり、インフラを支えている技術者や管理者の移動を、まるで敵国からのスパイのように扱うヒマや金があるのだったら、県内の飲食店をきちんと救う努力をすべきだろう。

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そんな鬱々としたニュースばかり目にしていたときに、目が覚めるような素晴らしい情報に巡り合った。僅か数日で再生数は100万を超えるような人気動画なので、ご存じのかたも多いと思うが貼らせてもらおうと思う。

1)マスクは何回まで洗って使えるか?電子顕微鏡で観察してみた結果・・・衝撃の事実が!

2)コロナウイルス飛沫を見る装置を作って布マスクの効果を調べた結果!

いずれも、市岡元気さんの「GENKI LABO」の動画。「専門家」の先生様たちが想像と憶測だけで「不織布マスクは一度使うとフィルター機能が低下するので再利用できない」と断言してきたが、そういった妄言を明快な実験で切り捨てる痛快な動画だった。

こういう「根拠のある」実践的な動画こそ、本当に私たちを救ってくれるような気がする。

時間通貨とベーシックインカム

NHKスペシャルで仮想通貨の特集があり、変わり種として?時間通貨というものが紹介されていた。

自分で調べたことも交えて書くと、2014年にスタートした「Time Ticket」という、何らかのスキルを持っている人たちが30分単位で自分の時間を売買(というか交換)できるという仕組みが皮切りになって、その後、「TimeBank」という、自分の時間価値を人気銘柄のように高値で取引できる仕組みとか、日本でも「ココナラ」という、自分のスキルや能力を切り売りできる仕組みが広がりつつあるようだ。

TimeTicketは、どうやら「すべての人の時間価値はほぼ平等」(たとえば、英語を教える代わりに料理を教えて、という感じ)という大前提のように思えるので、適用できる範囲に限界があるような気もするが、TimeBankとかココナラは、いわば自分の能力を何らかのかたちでマネタイズできる仕組みなので、「ちょっとしたアルバイト」感覚で広がっていくような気もする。配車サービスのUberなんかもある意味その仲間かも。

人によって1分の価値は異なるか?もちろん異なるに決まっている。なんらかの形で金額換算すれば、1分10円の人もいれば1分100万円の人もいるかもしれない。生産性というある程度客観的な評価も結構難しいし、美しさや快適さといった主観的な評価に至ってはもっとばらつきがあるに決まってるのだから、「人によって時間価値が異なる」のは、当然のこととして受け入れやすい考え方だと思う。イチローに野球を教わるのと、中学校の野球部で野球経験があるだけの人に野球を教わるのが等価値であるわけがない。

いっぽう、給与や賃金、労務費や作業費の見積などは、個人の個性や能力をかなり丸めて「一律いくら」で計算してしまっていることも多い。こちらを基準に考えると「時間の交換」はできなくもないのかな、という気もして来る。英語を教えるのも料理を教えるのも、どちらも時給換算したら2千円くらいでしょ?という感じか。

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・・・というような、現行の「時間通貨」の効果や是非について考えたいのではなく、「TimeTicket」の発想の原点、というか、「時間価値は平等」という考え方がとても面白いと思ったのだ。

ヒトが生まれた瞬間に、すべてのヒトに平等に与えられるものが2つあると思う。ひとつは太陽光や空気などの地球的規模での自然環境。もう1つが「寿命」という数十年の時間。もちろん、生まれつき難病の人もいるし、誰にとっても数十年の時間は「保証」されたものではないが、それでも大雑把には、生まれたばかりの赤ちゃんには、今後数十年の時間が与えられたと仮定しよう。

この「数十年の時間」の一部を国が買い上げてみてはどうだろうと考えた。すべての人は一定期間、公共の仕事に従事する義務を負う。「公共の仕事」の中に、介護や医療なども含めれば、国は財政支出を劇的に削減できるはずだ。日本の人口を1.2億人、平均寿命を80年として、そのうち2年間を「公務員」として働く義務を負うとすれば、常時300万人の公務員労働力を確保できる計算だ。

公務員といっても、役所の中で事務計算をするだけではない。国がコントロールして、その人の個性や能力を見ながら「労働力が手薄」と思われる分野の仕事に派遣する仕組み。医療や介護が筆頭だろうが、建設業や林業やITなど、毎年分野を見直していくことである種の社会主義経済のようなものが実現できる。

特に介護分野に大量の労働力が投入されることで、高齢者がいちいち医療機関にお世話にならなくても済むようになれば、莫大な医療費削減にもつながるはずだ。

そして国は浮いたお金で「ベーシック・インカム」(以下BI)を全国民に提供する。BIの考え方は色々あるだろうが、ぼくの考えるBIは、現金の支給ではなくあくまでも現物支給だ。そして現物支給といってもミールクーポンのような闇で売買されてしまうようなものではいけない。目的は「貧困の撲滅と教育・医療・介護機会の均等な授与」だ。

赤ちゃんに寿命が自動付与されたとしても、貧困が理由でその子が不幸になってしまう可能性もある。また、治療すれば治癒する病気で命を落としたり、貧困が理由で教育を受けられなかったために、能力を開花できずに社会貢献できなければ社会にとっても不幸だ。能力のある老人がケアを受けられずに社会貢献できない状況というのも同じ。

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衣食住や教育医療介護をどうやって無料で実現するかをちょっと具体的に妄想してみる。ポイントは「現物支給」であることと、「最低限の」保証であるということだ。

まず食は各自治体に町内単位くらいで「食堂」を設け、本人が直接「料理」をもらえる仕組みにしてはどうだろうか。衣類に関しては例えば人民服のような画一的なデザインにしてしまえば、積極的なニーズも無いだろうし、妙な売買も無くなるはず。住に関しては老朽化した公的住宅や放置された空家などを利用した「快適とは到底言えないが雨露は充分しのげる」ものを提供。

教育は義務教育期間はもちろん無料。医療や介護費用は「収入に応じて」負担率を決める。
エネルギー(水道光熱費だけでなく電話やネット利用料も含めて)については、基本は現在と同じ出来高請求だが、家族の人数に応じて「無料枠」を設ける。最低限の利用に留めれば原則無料になる仕組み。

など。

要するに、「生きてはいけるが、こんな生活をいつまでも続けるのは嫌だ」と思えるところがポイントだ。

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『BIが充実したら、誰も無理して働かなくなるのでは?』『結果として国力が衰えるのでは?』という当然の疑問もあるだろう。

しかし、人は競争が好きなのだ。BIだけでは「生理的欲求」「安全の欲求」は満たされても、それ以上の欲求を満たすのは困難だ。

とにかく「何かやろう」と思うと、どんなに些細なことでもお金がかかる。カラオケに行くにも飲みに行くにも旅行に行くにも、BIだけではどうしようもない。「普通の生活」をしようとするだけでも、今と同じように働かないといけないはずだ。

もちろん中には「貧乏でもいいから、一生詩を書いて暮らしたい」というような人もいるかもしれない。それはそれでいいと思うのだ。詩人に限らず、アーティストと言われる人たちは今でもいきなり売れるわけではないだろう。アーティストを目指した多くの人は「生活優先」で挫折していったのではないだろうか。

それがBIによって「最低限の生活が保障される」のであれば、自分のやりたいことをとことん追求でき、やがては芸術大国になれるかもしれない、などとも思った(笑)。

みさきめぐりのとしょかんバス

表題は岩崎書店の「としょかんバスシリーズ」の絵本の名前。舞台は北海道の根室市立図書館。としょかんバス「あすなろ号」も実在のバス。このシリーズでは他にも北海道標茶(しべちゃ)を舞台にした「大草原のとしょかんバス」とかもあるようだ。作画は絵本作家の梅田俊作氏だが、作者の松永伊知子さんは根室市の図書館司書。

変な話だが、絵本を知らなくても、あるいは読まなくても、このタイトルだけで優しい想像を掻き立てられないだろうか。人の持つ優しい部分だけが詰まった本のような・・・
実際手にして読んでみると想像どおり、『やさしいきもちに ひたりながら、あすなろ号は としょかんへ かえります。』と書かれているよう、仄かな温かみが伝わってくる本だった。

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というわけで?この絵本に触発されただけではないのだが、根室市立図書館と、(あすなろ号の目的地でもある)納沙布岬を訪れてみた。図書館ではたまたまちょうどあすなろ号が出発準備を整えていたところだったし、作中の「岬の少し手前の小学校」、現在廃校になっている珸瑤瑁(ごようまい)小学校跡も車窓から見ることができた。

9月下旬だったので、どこに行ってもナナカマドが美しい実をつけていたが、もっと気になったのが大きな蕗(フキ)の葉。中標津空港から根室市街に向かう国道沿いのみならず、ありとあらゆる道路沿いに蕗が育っている。

絵本の表紙でも(下図)本を手に嬉しそうに笑っている子供たちの中に大きな蕗の葉を傘にしている子供もいる。蕗の傘といえばコロボックル(アイヌの伝承に登場してくる小人)。ハワイの伝説の小人メネフネと同様、とっても有能だがとってもシャイな人たち。コロボックルの正体については諸説あるようだが、和人よりも昔から北海道に土着していた人たちであるのは間違いないのだろう。

根室といえばもちろん漁業の町で花咲ガニの産地としても有名だ。あるいは北方領土と隣接した望郷の地というか。絵本の中では、司書のクマおじさんとみっちゃんがバスで色んな人たちと出会っていくのだが、クマおじさんは国後島の出身、『根室もいいけど、島はもっといいぞ。でっかいカニやホタテはわんさかとれるし、けしきもよくって おんせんもでるし』とも語っている。

たった数日訪れただけで何がわかると言われそうだが、ぼくの印象としては、「根室市」は結構整備された都市で、漁業の町なんだろうけども、「根室という土地」は、大湿原や大牧場や原野が広がる雄大な美しい土地、というものだった。

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実は前後して読んだ本に「一九四五 占守(しゅむしゅ)島の真実:少年戦車兵が見た最後の戦場」(相原秀起 著)という、太平洋戦争で日本が無条件降伏をした『後で』攻め込んで来たソ連軍と戦った日本軍の記録がある。占守島というのは、北方四島よりも遥か北、カムチャッカ半島と向い合せになっている北千島の北端の島のこと。

戦史としての内容は省略するが、北緯50度という極寒の地の、夏の風景の素晴らしさが何度も「天国」として描写されているのが気に留まった。短い夏の間に、可憐な高山植物が一斉に咲き誇る美しさ。実は根室でも短い夏の間に色んな花が一斉に開くようで、9月下旬というのに満開のアジサイや、タンポポなども目にすることができた。北千島はもちろんのこと、国後島も、そして根室も、本来「とても素晴らしい景色」の場所だったのだろうと想像が膨らむ。(もちろん冬の厳しさは半端ではないのだろうが)

完全にぼくの持論で、根拠を問われると困るのだが、ぼくは『人の心の優しさは、住んでいる場所の美しさに比例する』と信じている(笑)。住んでいる場所がすさんだ風景だと、心もすさんでいく気がしてならない。

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ついでに書くと、ぼくの脳内では北海道の歴史は以下のような階層でできている(^^)。

・美しい風景と共存していて、社会組織も大きくなかったコロボックルの時代
・社会組織が大きくなってきたとはいえ、それでも風景と共存していたアイヌ大首長の時代
・和人がアイヌ社会の中で共存していた時代(アイヌ > 和人)
・和人が「開拓」を始めて、アイヌを迫害した時代(和人 > アイヌ)
・アイヌの主権が無くなり、日本人が日本の土地とした時代
・日本がソ連/ロシアと争って戦争や国境紛争を起こしている時代、現代。

・・・こう考えてみると、北方四島のみならず、千島や樺太は本来誰のもの?という気がしないでもない。