新川 明 「新南島風土記」

なぜ「新」なのかというと、東恩納寛惇の『南島風土記』を踏まえたネーミングであるかららしい。ただし、この本で登場してくる地域は八重山、すなわち石垣島以西の島々に限定されている。

著者の新川明氏は沖縄タイムズ社の新聞記者で、労働組合運動に関わったことから、いわば左遷として八重山に「とばされた」そうだ。(あとがきより)

時代は1960年代、もちろん沖縄「県」ではなく、米軍占領下の琉球政府の時代だ。これもあとがきをそのまま書くと、『当時の八重山についての沖縄本島人のイメージはとてつもない僻遠の島というところで、八重山行きを知らされた那覇生まれの家内は、まるでアフリカの奥地にでもやられるかのように嘆き悲しんだものだ。』とある。

その八重山での「仕事」として、島々を取材して回って新聞連載した記事をまとめたのがこの本である。1972年の沖縄復帰後、観光・リゾート地として認知される以前の八重山についての最後の貴重な記録といった側面を持っている。

———

沖縄対八重山というのは、現代ではあまり大きな区別が無いようなイメージがある。ハワイでの、オアフ島対ネイバーアイランドの関係に似ているかもしれない。しかし、一昔前までは、八重山というところは、確実に沖縄の「1つ下」の地域だったらしい。

1609年(日本の慶長14年) の薩摩入り以後、薩摩の厳しい徴求に苦しんだ琉球王府は、両先島と呼ばれた宮古島と八重山に対して一層支配を強め、確実な徴税法として人頭税を課した。

これは読んで字のごとく、所得や所有する農耕地の広さに寄らず、単純に「頭数」で課税する制度で、貧しい人々にとっては、「トゥングダ(人升田)」「クブラワリ」といった、凄惨な人減らしによってしか重税に対応できなかったという酷いものだったようだ。しかもその制度が、明治政府になった後も数十年、1909年まで続いていたというのも驚きである。

江戸幕府から見れば外様の薩摩藩。その薩摩藩に収奪された琉球王国。そして、その琉球から過酷に収奪された宮古・八重山という階層構造があったのだ。

———
新川氏の取材成果物の中には、多くの詩や歌、伝承が登場してくる。そもそも八重山自体が「詩の国、歌の島」と呼ばれることもあるらしい。今、竹富島に観光に行って名物の水牛車に乗ると、そこで安里屋ユンタなどを歌ってくれる。「ツィンダラ、カヌシャマヨ~」など、いかにも南国に来たなぁ~という気にさせてくれるものだが、この安里屋ユンタは、最近になって観光用?に作詞さらたものらしく、オリジナルの安里屋ユンタをはじめ、八重山に伝わる多くの歌は、権力者に対して無力だった人たちのギリギリの叫びのようなものが大半だったらしい。

そういった、人頭税を軸とした八重山の悲しい歴史や、遂に立ち上がったオヤケアカハチの伝説、マラリヤの巣窟だった西表島の話など、観光案内にはあまり語られない話に満ちているのだ。

ちなみに、一部の人々(^^)の間では非常に有名な下地島も登場してくる。八重山の古代的祭祀であるアカマタ・クロマタという、ニイルピトゥという神が、ニライ・カナイの国から毎年訪れて豊年を授けるという伝承にもとづく行事が下地島にもあったらしい。
しかし取材の時点では住民は四散して無人島になっており、さらに注釈として、『下地島は、その後、那覇の青年実業家が全島を買収して牧場を経営している』とあるのだが、今では「空港の島」でしかないことは言うまでもない。