アドラーと禅

われながら、タイトルがちょっと壮大過ぎるとは思うけれど、なんとなく気になったことがあったので書き留めてみようかと思った。思想全体の比較というような大仰なものではなくて、似ているところがあるのかな、と思ったまで。

ちょっとだけ素人解説すると、アドラーという人は、ヨーロッパではフロイト、ユングと並ぶ三大心理学者とされており、最近日本でも岸見一郎氏の「嫌われる勇気」「幸福になる勇気」がベストセラーになったこともあって、ちょっと知られるようになった。アドラー心理学は「思想」ともいえるものを持っているため、「それはサイエンスではない。宗教だ」と嫌う人もいるようだが、思想を持つが故のとても実践的な考え方が、ぼくにはすごく受け入れやすかった。

禅については、聞いたことが無いという人はいないだろうが、日本での禅というのは中国の宋の時代に移入されたもので、やや観念主義的で虚無思想的なイメージもあるが、達磨大師が伝えた時代や、少し下って唐の時代の頃の禅というのはもう少し柔軟なものでもあったようだ。

実は大学で禅を研究している友人がいて、禅問答を理解するには口語を深く理解する必要があるという動機で中国語まで堪能になってしまった男なのだが、彼が先日TVで禅について語っているのを観ながら、なんとなくアドラーを彷彿してしまった、というのがこの文章を書いているきっかけ。
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アドラー心理学の用語で「自己受容」と「自己肯定」という、一見すると違いがわかりにくいが、まったく意味の違う言葉がある。大雑把にいうと、自己肯定というのは、何も反省が無い状態の自分をそのまま認めてしまうこと。何か失敗があっても「本当の私はもっとできる人間なんだ、違う人間なんだ」と自分をだまして心を軽くしてしまうこと。それに対して自己受容というのは少し残酷で、「できない自分、我ながら恥ずかしい自分を認める」ということで、自己受容を行なえて初めて、勇気を出して自分を変えて行ける。(らしい)。

いっぽう、禅の基本的な考え方は「積極的に外から情報を取り入れ、勉強して悟りを開くことで仏になる」のではなく、「仏性は本来自分の中にある。内側にある余計なものを取り去るだけで仏になれる」ということ。(らしい)。

で、おそらく「なんだ、取り去るだけでいいのか。そうか俺はそもそも仏だったんだ」と満足してしまうのがアドラーでいうところの自己肯定。禅の用語だと野狐禅ともいうらしい。そうでなく、自分がどれだけ余計な衣をつけていたのかを認識し、もはや肉体の一部にまでなりかけていた衣を血を流しながら1枚1枚はがしていくのが自己受容のステップということなのではないか。

「衣」をアドラー的に表現すると、「他者の目(他人からどう見えるか)」「向上心という名の優越コンプレックス」「逃避の言い訳としての劣等コンプレックス」なんかが相当するのだろう。

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もう1つ、似てるのかなと思ったのが、アドラー心理学のカウンセラーのアプローチと、禅問答における師の返答。アドラーのカウンセラーに相談しても、カウンセラーは決して「貴方はこうすべきです」とは言わない。(らしい)。
なにしろアドラー心理学は「個人心理学」と言われるように、万人共通の答があるわけではない。人によって、身に着けている衣はまったく違うし、衣を捨て去った後に見えてくる自分も個々それぞれだ。なので、カウンセラーは、アドラーの考え方を伝えながらクライアントに寄り添って「一緒に考える」、岸見一郎氏の言葉でいえば、「馬を水場に連れて行く」ことはできるが、答えを出し、水を飲むかどうかは完全にクライアント次第。(らしい)。

禅問答でも、師のほうは答えがわかっているのなら、もうちょっと明確に答えてあげればいいじゃないかというものばかりだ。
「如何なるか是れ祖師西来意(禅の本質は何ですか)」「麻三斤(着物1着の布)」みたいな。要するに、答を教えてもらっては意味が無い、自ら納得して「ああ、そうか」と気づかないといけない。ということなのだろう。

僅か一時間ほどの番組だったが、ぼくにとっては少し刺激的だったかもしれない。