「みんな」という言葉の毒

しょっちゅう目にし耳にし口にする「みんな」という言葉。この言葉、良く考えてみるとちょっと毒があるように思えたので書いてみる。

英語への直訳だと、all of us とか all of you とかall of them ということになるのだろうが、それだと「俺たち/お前ら/奴ら『全員』、一人残らず」という、かなり限定的な意味になってしまう。意味する範囲は「100%」ということになる。

もちろん、「みんな」をそのまま「全員」という意味で使う局面もあるだろう。引率の先生が生徒に向かって「みんなこっち来て~」というのは、「全員漏れなくこっちに来て」と考えて差し支えないだろう。all of youと訳しても問題無い。

でも、「みんなのうた」「みんなでゴルフ」というように、単に「多くの人、複数の人」という意味しかないのに、「一見、全員であるかのような」ニュアンスでつかわれることも多い。これを突き詰めると、「みんな」という言葉には「少しの人を多くの人のように見せかける」トリックが隠されているように思うのだ。

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例えば、子供が親にオモチャをねだるときに「みんな持ってるんだからボクも欲しい」という、ありがちなセリフ。そのとき、「みんなって誰と誰だよ?」と聞き返す親もいるのかもしれないが、たいていの親は「自分の子供だけが不憫な思いをするのはかわいそうだ」という心理になってしまうのではないか?

子供が言うのならまだしも、大人が「みんなの意見ですから」とか、「みんな使ってますよ」というときには、相手の横並び心理を刺激することで、自分に同調させようという狡猾な感じも漂う。「みんな」という言葉ひとつで、「あなた以外の全員が」というニュアンスを漂わせるなんてほとんど恐喝だ。

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「ほぼ100%」と主張したいときに使える便利な言葉「みんな」ではあるが、実際のところ何%が対象なのか極めて曖昧なために、「責任の所在の曖昧さ」が生じることもある。

あるグループに仕事を渡すとき、グループの代表者から「みんなで頑張って仕上げます」という返事をもらったとしよう。日本語として特に不自然な感じも無いから「じゃあよろしく頼むね」とでも返すことになるだろう。

しかしその「みんな」の中に、代表者は含まれているのかいないのか。代表者が言っていた「みんな」は「all of us」だったのか、自分の部下たちを示す「all of them」だったのかがわからない。仕事が成功したときには「all of us」、失敗したときには「all of them」と使い分けるつもりではないのか、等。

数年前、『みんなの党』というミニ政党が出現したこともあった。政党の理念とか政策内容以前に、党名自体に胡散臭さを感じてしまったのはぼくだけだろうか?「みんな」を強調すればするほど、実際は「自分のことしか考えてない」イメージがつきまとう。

「曖昧さ」というのは「柔らかさ」にもつながる。「全員」というより「みんな」のほうが優しい感じがするのでつい多用したくなる。しかし、「みんなのうた」が一体誰と誰のうたなのか決してわからないように、「曖昧さ」が「無責任さ」につながっているほうが多いような気がするのだ。

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「みんな」という言葉を使っていると、悪い意味での「集団心理」の陥穽に陥ることもある。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という風刺があるが、ここで言われている「みんな」は、客観的に見れば数人だろう。ところが渡ってる本人はもう「世界中の人が赤信号無視してOK」と思ってしまうのだ。

新幹線の車内で大騒ぎで宴会をして顰蹙を買ってるサラリーマンのグループ。彼らも、ひとりで新幹線に乗ってるときには大人しくマンガでも読むか居眠りでもしているのに、数人が集まった途端に気が大きくなって「何をやっても許される」気分になるのだろう。「みんなで騒げば怖くない」という感じか。

要するに、「みんな」と言ってる本人は「世界中の人」のつもりだが、客観的に見ると「ごく一部の数名に過ぎない」ということが多いのではないか。

なので、日常会話でやたらと「みんな」を多用する人に対しては、かなり警戒しておいたほうがいいんじゃないか・・・というのがぼくの結論。