豊かさについて考えた(「ダフニスとクロエ」から)

「ダフニスとクロエ」はラヴェルの組曲(特に第2楽章)が有名だが、曲を聴いて考えたのではなく、実は恥ずかしながら原作を初めて読んでいろいろ考えさせられた次第。(岩波文庫)

ざっとあらすじを書くと、高貴な装身具と共に捨て子とされ、なんと牝山羊がその乳で育てていた男の赤ん坊ダフニス、奇しくもその近所で2年後にまたも高貴な装身具と共に捨て子にされ、牝羊が乳を与えて育てていた女の子の赤ん坊クロエ。この2人がそれぞれ近所の山羊飼い・羊飼いに拾われ、それぞれ類まれな美少年・美少女に育ち、お互い自然に魅かれていき、幾多の困難を乗り越えながら最後はそれぞれ高貴な身分も明らかになって幸せに結ばれましたとさ、という話。

今から2千年近くも前!に書かれた予定調和的な恋愛小説なのに、色褪せた印象・退屈な印象を受けないことに驚かされる。山羊飼いの美少年、羊飼いの美少女という、現代のニッポンジンにはちょっと想像しにくい設定や、文中でたびたび出てくる神々との会話などから、小説というよりはある種の神話として読めるからなのかもしれない。登場してくる地名はギリシアに実在するものだし、盗賊や乱暴者、横恋慕するものや軍隊や男色家など、下世話で世俗的なシーンも多いが、全体としてどこかこの世の話では無いような透明感が漂う。

ギリシア神話自体が、下ネタも含めた結構下世話な話が多いということも考えれば、この話も、「小説」というよりは、エロース、ニンフ、牧神パーンといった神々に祝福された2人を題材にした「神話を取り巻く物語」といったほうが少し正確か。

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とにかく最初から最後まで、徹底して甘美なまでに美しい話なのだ。

ぼくが感じた美しさというのは3つある。ひとつは、「恋愛」というものの定義にもなりそうな2人の姿。美男美女が唐突に出会って恋に落ちてすぐさま結ばれるという話ではない。幼い頃からの知り合い、恋という概念すら知らずに魅かれあった2人。何年もの間ほとんど毎日のように遭い、キスを交わし続け、時には裸で寄り添いながらも、いわゆる最後の一線は超えない。倫理観による歯止めなどではなく、相手を傷つけたくないという真心から。

2つめは、2人が当然のように敬い、機会があるごとに供え物も欠かさないという、ニンフと牧神パーンへの信仰心。誰かに教義を教えられて義務感やリクツで信仰しているのではない。ごく自然に、ほとんど本能として信仰している。神々のほうも彼らの期待に応え、たびたび訪れるピンチを救ってくれる。また、直接登場はしないものの、愛の神「エロース」によって選ばれ、祝福された2人ということになっており、エロースがまた臨機応変に2人を助けてくれる。

3つめ。取り巻く風景の描写がこれまた美しい。まるで地上の楽園のように、花や果物が溢れ、風は優しく、小鳥たちがさえずり、飼っている山羊や羊たちもまことに従順。毎日が美しい幸福に包まれている。ダフニスの養父、「山羊飼い」ラモーンも「田舎の貧乏人」という記述であるが、彼が管理している庭園は王宮風に手入れされ、奥行1スタディオン(180m)、幅4プレトロン(120m)もあり、ありとあらゆる果実の樹や花壇でいっぱいだ。

本能のままに生きても、常に自分よりも相手のことを大切にしたいと思う心。神と人とが共存して対話していた時代、ヒトのできることには限界があることを謙虚に受け止めて、真摯に神を敬う心。そして優しく美しい自然に囲まれた環境。

・・・三島由紀夫が「潮騒」を執筆するにあたってダフニスとクロエからインスパイアされたというのも、こういう3つの美しさに魅かれたからではないだろうか・・・?

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世俗的な定義で言えば、ダフニスの養父もクロエの養父も「貧乏人」であり、ラモーンに至っては「主人に仕える召使」という位置づけ。彼らが育てているダフニスとクロエは、(人身売買の対象になるという意味で)「奴隷」ということになるらしい。

現代の日本にはもちろん奴隷はいない。自ら「中産階級」と位置付けて安心している人たちが大半だ。溢れかえる性情報を普通のことと思い、神を信じないのはもちろんのこと、ヒト同士も疑い合い、庭も無い3LDKのマンションをローンで買って一生の大半を縛られることを普通と思う人たち。

いったいどちらが「奴隷」なんだろう・・・

もちろん、ぼくたちだけが貧しいわけではなく、貧しさが世界中に広がっているからこそ、ダフニスとクロエの物語はいつまで経っても色褪せないのだろうとしみじみ思った。